【新プロジェクト✕】命をつないだラジオ~FMいわきの3.11~

NHK総合で「新プロジェクト✕ 命をつないだラジオ~FMいわきの3.11~」を観ました。

2011年3月11日の東日本大震災で400人の犠牲者を出し、福島第一原子力発電所の事故にも晒された福島県いわき市で、24時間体制で情報提供をおこなった地元コミュニティラジオ、FMいわきの奮闘ぶりが伝わってくる見事なドキュメンタリーだった。

阪神淡路大震災の1年後の1996年に有事に災害情報を伝えることができる放送局として、第三セクターとしてFMいわきは開局した。普段は地元の祭りや商店街のイベントなど地元密着の情報を伝えていたが、開局から15年経ったときに、その真価が問われることになる。

坂本美知子アナウンサーは地震の第一報、そして大津波注意報を伝えた。災害対策本部を取材し、被害状況を放送。特に沿岸部の被害が壊滅的で、火災、停電、断水、交通マヒ…ライフラインの情報は勿論だが、災害対策本部が発表する死者・行方不明者について心を痛めながら伝えた。

福島第一原発の放射線漏れが発表されると、半径20キロ圏内の市民は避難が指示された。それと同時に、災害対策本部から報道機関が次々と撤退していった。自主避難も多く、駅前から人が消えた。FMいわきはどうするのか。寒空で給水を待つ長蛇の列を見ると、安部正明局長は避難することが躊躇われた。東京から3年前に転職してやって来た土地を見捨てるわけにはいかなかった。「残る」と決めた。

局で働いているスタッフの意志確認をする。看板パーソナリティのベティは夫と小学生の子どもには避難させ、自分だけ残って「FMいわきの力になる」と決断した。そして、8人が残った。

取材、放送、休憩の3班に分かれ、24時間体制を敷いた。食材を持ち寄り、自炊。段ボールにくるまって睡眠をとった。安否情報、食糧やガソリン、生活物資などの自治体配布の情報を細かく伝える。だが、苦情も来た。「9時から配布と言っていたので、行ってみると終わっていた」。取材の結果、7時前から並んで待っている人が多かったので、予定より早く配布し、在庫が切れたのだと判った。寒空に待っている人を待たせることが出来るか。何が正義なのか、苦悩したという。リスナーの不安や怒りと向き合うことが使命だ、と。

ラジオから流れる声に「安心します。いつもありがとう」と局を訪ね、出来立てのピザを差し入れてくれる男性がいた。情報を必要としてくれている、裏切れない。温かいピザは何よりのご馳走だった。

震災4日後の朝。悲壮感漂う声で「助けてください」と訪ねて来た人がいた。避難所の県職員だった。原発近くの病院の入院患者300人がいわき光洋高校の体育館に搬送され、衰弱しきっているという。医薬品もなければ、食料もない。氷点下の寒さで7人が亡くなった。ラジオの呼びかけに一縷の望みを託したのだった。「暖房用の灯油を持ってきてくれる人はいませんか」「炊き出しのお手伝いをしてくれる人はいませんか」。パーソナリティの立原めぐみは緊急ボランティアのお願いの原稿を丁寧に読み上げた。

気持ちのこもった呼びかけに応えるように、物資が届けられて倉庫いっぱいになった。何か手伝えることはないか、と看護師や介護士が駆け付けた。そこはまさに野戦病院のようだったという。ラジオとリスナーが人々の命をつないだ。

震災から一週間。通水率は3割に達したが、まだ9万戸が断水のままだ。復旧工事は難航し、節水生活を余儀なくされた。リスナーから苦情の電話が入った。「復旧した場所を伝えても意味がない。俺のところがいつ戻るのかを知りたい」。尤もだった。安部は水道局を訪ね、工事に計画書を共有できないか求めた。だが、「公表すると混乱する恐れがある」と断られた。安部は「復旧の目途が市民は知りたい。ゴールが見えないと不安になる」と訴えた。数日後、水道局は公表を決めた。市民の苦情は減った。

放射性物質の健康被害について、専門家に取材して安心情報として伝えた。身元不明の遺体に関する情報提供の依頼は胸が張り裂ける思いだった。情報はただ伝えればいいというものではない。リスナーへメッセージを伝えよう。「いわきをひとつに!」をキャッチフレーズに、前を向いて少しずつ、今できることを精いっぱいという姿勢を貫いた。

震災2週間後。水道は6割の通水率に。リスナーから電話があった。「我が家にも水が来ました。お風呂に入れない人に無償でシャンプーします!」。美容師からの連絡だった。ラジオで伝えると、長い列ができた。こうした支援を名乗り出る人が相次いだ。

FMいわきの24時間体制の放送は2か月間、途切れることなく続いたという。コミュニティFMの底力のすごさを思った。