【新プロジェクト✕】大谷翔平 二刀流誕生~“はぐれ者”たちが野球の歴史を変えた~

NHK総合で「新プロジェクト✕ 大谷翔平 二刀流誕生~“はぐれ者”たちが野球の歴史を変えた~」を観ました。
現在、メジャーリーグで大活躍の大谷だが、その陰には日本ハムファイターズでの「ファイターズ大学」と称した4年間があったればこそだということがよく伝わってくるドキュメンタリーであった。
2012年のオフシーズン、花巻東高校の大谷翔平はドラフト会議を前に、「メジャーに挑戦したい」と宣言し、各球団は指名を見送る姿勢を見せた。その中で日本ハムだけが強硬指名という賭けに出る。日本ハムは04年に本拠地を北海道に移し、「チャレンジ・ウイズ・ドリーム」を掲げた。コーチ経験のない栗山英樹を監督に迎えるなどして、8年間で4回のリーグ優勝を果たした。
大谷獲得のミッションを受けた山田正雄ゼネラルマネージャーと大渕隆スカウトディレクターは大谷に実家に向かい、本人同席の場で挨拶をした。だが、大谷のメジャー挑戦の意志は固く、取り付く島もなかった。世界のトップで活躍したい、長く現役でいたい、そして誰も成し遂げていない新しいことをやりたい。「野球界のパイオニアになりたい」という思いが強かったという。
大渕は日本と韓国からメジャーに挑戦した選手を調べ上げ、「国内実績のない選手」が成功する確率は5.7%しかないことがわかった。また、野球は他競技と比べて日本で才能を潰さずに伸ばせる環境であることも数字で示すことができた。大谷に示す資料にはこれらのデータのほか、琵琶湖の写真を添付した。急がば回れ。風で船が進まぬことを考えると、陸路の方が確実で早いという昔からの諺である。メジャーに早く行けば良いというものではないという説得力を論理的に提示した。
大渕は大学野球からIT企業に就職、野球の夢を諦めきれずに30歳で新潟の教員になり、高校野球の監督になった経験がある。自分も遠回りの人生だった。資料は「夢への道しるべ」と題して、両親に渡して説明した。だが、「パイオニアになりたい」という答えにはなっていなかった。そのとき、母親が「(投打)両方やるっていうのはないの?」と言ったときに、大谷が「そんなことは球団が許すわけない」と笑ったというエピソードを知らされた。
スポーツキャスターとして大谷を取材したときに感じた「底知れぬ素質」を判っていた栗山は直接、大谷の許を訪ねて「エースで4番になってほしい」と説得した。「パイオニアになりたい」という答えだった。常識や前例は全く関係ない。栗山の提案を受けて、大谷は日本ハム入団を決意する。ここから、前代未聞の二刀流プロジェクトがスタートした。
2013年、キャンプイン。栗谷はコーチやスタッフの前で「二刀流でいく」ことを宣言する。4年計画のファイターズ大学構想に、コーチ陣は半信半疑だった。だが、150キロを超えるピッチング、そしてスイングの軌道に度肝を抜かれる。育成は体作りから。トレーナーの中垣征一郎は周囲の「無謀だ」という声とは対照的に、トレーニングの構造的には可能だと思った。大谷との二人三脚がはじまる。ドリルと呼ばれるメディシンボールや棒を使った地道な反復練習で、「打つ」「投げる」の両方に共通する横方向への体重移動を徹底的に鍛えた。中垣は中学で野球を諦めたが、大学でスポーツ理論を学び、海外で無数の選手と向き合い、アスリートの能力開発を担った。競技が違っても、体作りは変わらない。
大谷プランがスタートした。1年目は投手のときは打席に立たず、ピッチングに専念。打者のときは野手として出場する。2013年のシーズンが開幕した。開幕戦で8番ライトで大谷は出場。高卒ルーキーのスタメン抜擢は54年ぶりのことだった。そして、期待に応え、2安打を放つ。
投手としては二軍で先発4試合を投げたが、結果は出なかった。栗山は実戦での経験を増やしたいと、リリーフでの起用を考える。8月18日、5番ライトで先発出場すると、8回表にリリーフとして送られ、1イニングを無失点に抑えた。だがこのとき、ブルペンでは思わぬ軋轢が起こっていた。リリーフ投手の谷元圭介が投手コーチから「大谷が25球を超えたら、投げてくれ」と言われた。谷元は悔しさからその場に泣き崩れた。身長167センチ、社会人からテスト生として入団した苦労人のプライドが傷ついたのだ。谷元は「大谷が綺麗なハンカチなら、僕はボロ雑巾ですね」と振り返る。次の回に谷元はマウンドに上がり、三者凡退に抑えた。
2013年。投手として3勝0敗、防御率4.23。打者として打率2割3分8厘、ホームラン3本。二刀流とはほど遠い成績で、チームはリーグ最下位に沈んだ。チームに亀裂が入りはじめていた。
2014年、2年目。投手のときは中6日の先発ローテーション。打者としては守備につかず、DHとして打撃に専念。5月13日、初の完封勝利。7月5日、1試合2本塁打。その陰では人知れぬ努力があった。試合終了後に寮でウエイトトレーニング、常に4つの大きなバッグを抱えていて、その中にはプロテインなどサプリメントが入っていた。24時間365日、自分の飛躍のために時間を費やしていた。
2014年は投手として11勝4敗、打者としては10本塁打。日本ハムはリーグ3位だったが、クライマックスシリーズで首位ソフトバンクとファイナルステージを戦い、大谷が先発して勝利を収めて、3勝3敗の五分となり、明日が決戦となった。その夜、中垣から栗山に電話が入る。「翔平が地下駐車場で素振りをしています!」。大一番で使ってくれという猛アピールには大谷の「日本一への思い」があった。だが翌日、栗山が決めたスタメンに大谷の名前はなかった。そして、日本ハムは敗れ、シーズンは終わった。才能を守り抜くという栗山の苦渋の決断がそこにあった。
2015年。5月22日のソフトバンク戦。7回まで3点リードしながら、5失点を喫し、降板した。その夜、栗山へ大谷からメールが届く。「明日、打者として使ってくれないか」。翌日、栗山は大谷を監督室に呼び出し、「気持ちはわかる。だが、いつかこちらから頭を下げてお願いする日がくる。きょうは使わない」と伝えた。このシーズン、投手として最多勝の15勝5敗、最優秀防御率の2.24、最優秀勝率7割5分。だが、打者としては2割2厘、5本塁打と振るわなかった。チームはリーグ2位で優勝を逃し、二刀流は正念場を迎えた。
2016年、ファイターズ大学の集大成の年。栗山は大谷にシーズンの目標を書かせた。「日本一、リーグ優勝、20勝、20本塁打」。まずは個人成績よりもチームのことを考えていることが嬉しかった。開幕投手としてロッテ打線に打ち込まれ負けると、一か月半はスランプに陥った。1勝4敗、防御率3.34。チームも3位だった。
5月29日。栗山は想定外の起用をする。6番ピッチャー大谷。投打同時出場だ。ケガにつながる可能性もあるが、中垣が背中を押した。「これでいきましょう!」。大谷は躍動した。5打数3安打1打点。7回を投げて被安打4、1失点。リアル二刀流が実を結んだのだ。
さらに勢いを増す。7月3日、11.5ゲーム差つけられている王者ソフトバンク戦。常識破りの起用、1番ピッチャー大谷。それに応えるかのように、プロ野球史上初の投手による先頭打者ホームラン!投手として8回10奪三振0失点。打者として2打数1安打1本塁打。ソフトバンクをねじ伏せ、優勝へ突き進む。谷元圭介もリリーフの柱として活躍した。
9月28日、西武戦。残り2試合。勝てば優勝だ。大谷は投手コーチの厚澤和幸に「こんな最高の舞台を用意していただき、ありがとうございます」と言った。そのことを栗山に伝えると、試合前なのに栗山は号泣した。4回まで一人のランナーも出さないパーフェクトピッチング。だが、ここでアクシデントが起きる。右手の指にマメができ、出血していた。厚澤が近寄ると、見せてくれない。判ると、代えられてしまうからだ。大谷はマウンドに上がり続ける。さらにギアを上げる。8回まで1安打15奪三振。栗山も代える気はなかった。「いつかこちらから頭を下げる」日が来たのだった。最終回もピシャリと抑え、日本ハムは4年ぶりのリーグ優勝を果たした。
そして、1年後。大谷はメジャーに移籍した。MVP4回、ワールドシリーズ2連覇、50本塁打50盗塁、アジア出身初のホームラン王。これらの活躍は野球の神様に引き寄せられた「はぐれ者」たちによって培ってきた日本ハム時代があればこそだと感動した。


