【アナザーストーリーズ】東大安田講堂事件~あのとき学生は何と闘ったのか~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 東大安田講堂事件~あのとき学生は何と闘ったのか~」を観ました。
1969年1月18日の安田講堂事件は東大の入試を中止するほど過激なものだったという。僕が4歳のときの出来事だが、学生運動とは無縁に育った世代にとっては、「東大全共闘」に対して、ある種の“憧れ”のようなものを感じていた。今回、このドキュメンタリーを観て、世の中に怒っていた若者の気概を知ることができた。
68年1月。医学部の無給の研修医制度の改革を求めて授業をボイコットしたことに端を発する。教授が学生を奴隷のように支配していることを許せなかった。6月に学生は抗議のために安田講堂を占拠した。そのとき、東大総長だった大河内一男は警察に通報、機動隊1200人の出動を要請し、学生の排除に乗り出す。だが、学生たちは「学問の自由を守る聖域を汚され、大学の自治を踏みにじられた」と感じた。
6月20日、機動隊導入反対の全学総決起集会。ここで大河内総長が説明をするが、対話にならないまま、体調不良を理由に総長は退出してしまう。立てこもった学生たちは満足しない。7月5日、東大闘争全学共闘会議が結成され、いわゆる東大全共闘の運動がはじまる。学生への処分撤回、機動隊導入に対する謝罪など7項目の要求を執行部に突きつけた。
アメリカにおけるベトナム戦争反戦運動、フランスのパリにおける五月革命など世界的に学生が反戦運動の中心に立ち、スチューデント・パワーと呼ばれる。自由と解放を求める全共闘の学生運動もその流れに乗って、解放区としての大学を維持したいとお祭り的ムードがあった。
8月10日、大学側は文書で「警察力の導入は避けるよう努力する。正常な勉学生活に戻ってもらいたい」という告示をするが、一方的な通知だとして学生たちの怒りは爆発した。頭にヘルメット、手にはゲバルト(暴力)棒、いわゆるゲバ棒を持って、武力で立ち向かい、安田講堂をバリケードで封鎖、大学は機能を停止した。
11月4日。大学は大河内総長を退陣させ、加藤一郎法学部教授を総長代行に選任する。加藤は早速、「これまでのことを反省し、謝罪したい。7項目も飲む姿勢だ」と声明するが、学生たちは交渉による解決を認めない。11月22日には日大・東大闘争勝利全国総決起集会が開かれ、全国から2万人の学生が集結した。東大は権力の象徴であり、学生運動の本丸と位置づけ、「東大解体」を謳った。運動は急速に先鋭化し、武装化し、内ゲバが頻発した。
12月になると、東大の入試は出来ないのではないかという空気が流れる。60年安保闘争を経験した政府は佐藤栄作首相らが大学紛争を危険視し、このままでは東大は潰されるという危惧から、加藤総長代行は入試を実行して自治の力を証明しようと躍起になった。そんな中、毎日新聞が12月25日に「東大入試中止は決定的」と報じた。「大学執行部東大闘争の記録」によれば、入試中止をほのめかして、学生にショックを与え、事態の進展を図ろうとする意見も出たという。加藤総長代行も「そういう意味ではテコになるかもしれない」と発言している。世間の逆風を煽り、学生を説得しようとする目論見が垣間見える。
就職などの将来の不安からストライキに反対する動きも出たが、安田講堂の中の学生たちの大半は寧ろ闘いへの決意が固まった。大学を守るためではない、大学を改革するために活動しているのだと考えたのだ。
12月29日、文部省は「1月15日までに封鎖を解除せよ」という通告を出す。存亡の岐路に立たされた加藤総長代行は秩父宮ラグビー場で1月10日に七学部集会を開き、対話をしようと試みた。最後の一手だった。だが、加藤を襲撃する学生が現れ、対話は実らなかった。16日、苦渋の選択で機動隊導入を要請。17日に学生にもこれを伝える。「ここに残るか、どうか」は学生一人一人に判断に委ねられた。そして、600人の学生が東大構内に残留。籠城は7カ月に及んでいた。
1月18日、強制排除。警視庁第七機動隊隊長の池田勉が最前線に立ち、指揮を執った。8500人の機動隊員が東大を取り囲み、午前6時50分に2つの門から突入し、バリケードを解除していく。8時には上空から安田講堂を襲い、火炎瓶で煙と炎に包まれた。池田はジリジリと前進したが、学生が投げた火炎瓶が機動隊員を負傷させる。「取り返しがつかないことをした。私の未熟な指揮が悔やまれた」と振り返っている。
そこはまさに戦場だった。昼までに機動隊が大半の校舎を制圧した。激戦だったのは工学部列品館で、明治大学の武闘派が立てこもっていた。催涙弾が投げこまれると、ある学生の顔面を直撃し、片目を失明した。「人を殺すために闘っているのではない」。無条件降伏を宣言し、列品館は午後1時5分に陥落した。
残すは本丸の安田講堂。学生たちは武器を失い、投石用の石を作るために建物を壊した。池田は「木のトンネル」を考案し、上にジェラルミンの楯を並べ、火炎瓶と投石から機動隊員を守って、突入させる。さらに秘策があった。消防庁から借りた高圧放水車だ。これでバリケードを吹き飛ばした。壮絶な攻防戦の中、加藤総長代行は投降を呼びかけた。
2時30分に機動隊は講堂三階入り口に到着。もはや、学生は闘う気力を失い、労働歌「インターナショナル」を歌っていた。5時46分、陥落。逮捕者総勢377名を出した。
1月20日、佐藤栄作首相は東大を視察し、入試中止を命じた。大学の自治を守ろうと頑張った加藤総長代行は政府の決定に抗議するも、受け入れるしかなかった。戦いは終わったのだ。加藤は闘争に加担した者全員に大学に戻ることを許した。それがせめてもの政府への抵抗だったのかもしれない。
70年代に入ると、学生運動は過激化の一途を辿り、72年にあさま山荘事件などを経て、終焉を迎えた。「あの頃の若者は怒っていた。社会に疑問の声をあげ、大人の欺瞞を問い質した。その声が消えたとき、我々は何を失ったのだろうか」。この番組のラストコメントを現代社会に照らし、どこか間違った方向にいく日本の政治を憂いている自分がいた。


