【アナザーストーリーズ】地下鉄サリン事件~知られざる格闘の真実~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 地下鉄サリン事件~知られざる格闘の真実~」を観ました。
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件。僕も当時、NHKの報道の現場にいて、その衝撃的な犯罪に恐れおののいたのをよく覚えている。被害者6300人、死者14人。オウム真理教による無差別テロは現代に何を問いかけているのか。番組の深い取材でよく伝わってきた、優れたドキュメンタリーである。
事件は8時過ぎに起きた。聖路加国際病院に8時16分、消防から緊急連絡が入る。「茅場町で爆発火災が起きた。患者を受け入れてほしい」。現在の院長で当時リーダーを勤めていた石松伸一は、運び込まれた患者が心肺停止しているのを診て、「爆発火災でなぜ?」と疑問を抱いた。心配蘇生を必死に試みたが、一人の女性が9時過ぎに死亡した。
地下鉄サリン事件は日本の中枢である霞が関に通じる日比谷線、千代田線、丸ノ内線の各駅で同時多発的に発生した。聖路加国際病院のは次々と途切れることなく、患者が運び込まれて来た。患者の多くは火傷などの怪我ではなく、気持ち悪い、特に目が霞むという症状を訴えた。瞳孔が極端に小さくなる、縮瞳という症状だった。農薬の有機リンという殺虫剤を摂取したときに起きる症状だ。
自衛隊中央病院医官の青木晃は富士演習場で大量傷者訓練をしたときに化学兵器攻撃を受けた場合い起きる神経剤による縮瞳症状の初期治療の方法を書いたテキストを配布する。そこには農薬中毒解毒剤のPAMが有効とあった。だが、強い副作用があり、慎重に投与する必要があった。
聖路加国際病院の集中治療室にいる5人の重症患者を担当していた奥村徹はPAMに期待した。患者は筋線維束性攣縮という異常な不随意運動、痙攣を起こしており、心肺停止で呼吸が止まる危険にさらされていた。だが、リーダーの石松は副作用への懸念から投与を迷っていた。苦渋の決断を迫られた石松は、10時30分にPAM投与に踏み切る。すると、11時。患者の痙攣が止まった。
その同じ時刻、警視庁から「地下鉄にサリンが撒かれたと特定」という発表が出る。石松は「誰が何のために?」と思ったが、計600人の患者が運び込まれ、医師や看護師ほか医療関係者の懸命な努力で、多くの命を救うことができた。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の第32普通科連隊に災害派遣の命令が12時50分に下った。連隊長の福山隆は地下鉄の除染作業の指揮を執る。15時に築地駅到着。17時に除染作業開始。水酸化ナトリウムを水に溶かした除染剤を撒き、サリンを中和した。濃度を細かく測定しながら、作業を進めた。いつから駅を再開して良いか、判断を迫られた中村勝美はサリンがほとんど気化したことから、自ら深呼吸をして縮瞳しないかを確かめた。5分経っても異常がないことを確信した。幕僚団の先輩からは「蛮勇は振るうな」と戒められたという。22時、作業は終了した。
1994年6月27日。松本サリン事件が起き、8人の死者が出た。上九一色村にあるオウム真理教本部を強制捜査する準備が進められた。オウムは旧ソ連製のヘリコプターを所持していて、反撃の可能性がある。95年3月20日。自衛隊中央病院の青木晃は北富士演習場に召集され、ヘリコプターからサリンを撒かれたときを想定した戦争さながらのシミュレーションが行われた。
3月21日。陸上自衛隊連隊長の福山らは市ヶ谷駐屯地で待機していた。そして、上層部から一通の封書が渡される。そこには「別命あるまで、開封を禁ず」と書いてあった。上層部は何を考えているのか。地下鉄サリン事件はオウムの犯行ではないかという疑念を持っていた福山は、あえてその封書を開けた。そこには「3月22日。オウム教団施設への強制捜査をおこなう。警察が武力で攻撃を受けた場合は援護せよ」という極秘命令が書かれていた。福山は選抜メンバーを結成し、内々の指示を出した。「これは遊びじゃない。訓練でもない。隊員の命が係わる大事だ」。
3月22日。警察はオウム本部に突入したが、教団幹部はすでに逃亡していた。肩透かしを食らった形だ。当然、自衛隊の出動もなかった。実はオウム幹部はこの強制捜査を事前に察知していて、そのかく乱のために地下鉄サリン事件を起こしたことが後になってわかる。極秘命令は幻に終わった。そして、オウムに対する疑惑の念は深まったのだった。
地下鉄サリン事件の実行犯の一人、豊田亨は東京大学物理学科で素粒子理論を学ぶ優秀な大学院生だった。東大で助手をしていた岸田一隆は地下鉄サリン事件の5年前に大学4年生の豊田と出会った。「明朗快活で、ユーモアもあり、スポーツマンだった」豊田がなぜオウムに入信したのか。岸田は豊田が死刑執行された2018年まで20年近く、獄中の豊田と対話をしてきた。元は原子核物理学が専門だったが、今は「科学は社会とどうかかわるべきか」を模索する科学コミュニケーションの研究者として、青山学院大学教授として教鞭をとっている。
豊田は大学入学とほぼ同時にオウムのヨガ教室に通いはじめ、麻原彰晃の選挙活動の応援もしている。大学院生となったある日、突然休学し、姿を消した。そして、オウム教団の科学技術省次官という幹部になった。逮捕後も一貫として「教祖は本当のことを言っている」と証言している。岸田は豊田の弁護人として法廷にも立ったが、そこで感じたのは「豊田ほどの人物が簡単に嵌ってしまう、極めて薄い壁を感じ、自分が逆の立場になってもおかしくない」ということだ。
2009年に最高裁で豊田の死刑が確定した後も、岸田は拘置所の豊田と会話を続けた。しかし、事件のことは一切語らない。反省の弁を述べることを、「被害者を傷つけてしまう」と嫌った。
豊田は拘置所から岸田に「勉強についての平凡なアドバイス―小さな「わかる」を積み重ねる―」と題した文章を送っている。若い人たちに向けた学ぶことへの心構えである。
山登りの場合、それまで歩いてきた道の全容が見えるのは、頂上に立った時であるように、勉強の場合もその内容全体を本当に俯瞰的にとらえることができるようになるには、ひととおり勉強が終わった後、ということになります。
2018年7月6日。麻原彰晃と6人の幹部の死刑執行。そして、7月26日に豊田亨の死刑も執行された。岸田一隆は訴える。
人間の合理的手法には必ず限界がある。「その外にある世界を垣間見るには、こういう世界がある」と神秘的な人が近づいてきたら、それにはまってしまう可能性はある。闇雲に知識を求めるのではなく、合理と神秘を注意深く区別することが重要だ。知識自体を信じる、それは科学ではなく宗教。そういう危険性をちゃんと認識しなくてはいけない。
地下鉄サリン事件が遺した教えを説く岸田のインタビューに深く頷いた。

