【アナザーストーリーズ】山口組 対 一和会~史上最大の抗争~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 山口組対一和会~史上最大の抗争~」を観ました。

1984年から89年まで続いた広域暴力団の山口組と一和会の抗争は、死亡者29人、負傷者70人(警察官や市民含む)、逮捕者560人に及ぶ、まさに血で血を洗う暴力団抗争だった。

1984年7月10日。山口組四代目組長、竹中正久の襲名式がおこなわれた。五十歳で頂点を極めた竹中を殺害する計画は、既にこのときから準備がはじまっていた。

神戸に本家のある山口組の三代目組長・田岡一雄はたった30人の組織を構成員1万人に巨大化させた男だ。「正業を持て」がモットーで、経営者としての才覚もあり、1957年には神戸芸能社を設立、歌謡ショーなどの興行をおこなった。1981年に田岡組長が死去。80年代のバブル景気に乗って、不動産業や金融業に手を出し、「経済ヤクザ」という言葉が生まれた時代だ。

組長代行だった山本広は経営者としての腕を揮い、物事を穏便に済ませる男。一方、若頭だった竹中正久は賭博が好きで、何事も暴力に訴える武闘派だった。84年に竹中の組長就任が決まると、山本は袂を分かち、一和会を結成した。分裂当時、山口組6000人に対し、一和会7000人の勢力を誇ったが、次第に山口組に組員が流れ、山口組10000人、一和会3000人という勢力図となった。

兵庫県警が極秘に作成した竹中正久という人物の研究資料によれば、「暴力的社会で親分と呼ばれる年輩者であれば、それなりに物事の筋、道理を理解し、妥協していく一面があるのが普通であるが、竹中は絶対に妥協しない」とある。そこには掟があった。警察官とは絶対に口をきくな。検挙されても組仲間のことは喋るな。事件のことを喋った奴は片腕を切り落とす。

竹中は13人兄弟の7番目に生まれ、貧乏のどん底を味わう幼少時代だった。幼くして父を失う。スイカ泥棒で捕まったとき、父親のいない自分一人だけ少年院送りとなった経験から、世の中の不公平に不満を持ち、権力に抗う気持ちが強かったという。

また、通常のヤクザは豪邸を持ち、高級クラブで豪遊し、情婦を囲い、ゴルフ場通いという派手な生活をするものだが、竹中はその正反対で、妻子を持たず、地味な生活を好み、子分に優しい側面があったという。

一和会幹部4人は竹中の命を狙った。85年1月26日、知り合いの女性のマンションに組員を連れて寄るという情報を得ると、若頭・中山勝正と若中・南力、そして竹中を銃撃。中山と南は即死、竹中は大阪警察病院に搬送されるも、3発の銃弾を受けたため、翌日に死去した。享年五十一だった。

1991年、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律、いわゆる「暴対法」が成立し、暴力団の取り締まりが強化された。

この山口組と一和会の抗争を継続的に取材したのが、大阪の夕刊紙だった。夕刊フジの記者だった鳥居洋介は「竹中ドンが愛した女」をスクープした。「極道に妻子はいらぬ」を貫いていた竹中だが、銃殺の現場となったマンションで竹中を「折詰寿司を買って用意して待っていた」女性がいたのだった。

また、関西新聞編集局長だった若野正太郎は竹中殺害の4人の実行犯それぞれの人生を取材。技術も学歴もない男が親よりも大事にした親分への忠義のために人を殺すことも厭わない、そこに人間ドラマを感じた。一和会は消滅、組長の山本広は山口組に詫びを入れ、引退し、今はひっそりと暮らしているという。竹中銃殺のリーダーだった男は無期懲役となり、今も刑務所で服役中だ。

山口組で30年以上、顧問弁護士をした山之内幸夫は「ヤクザも同じ人間」と感じたという。損害保険会社で顧問弁護士をしていた山之内は暴力団の詐欺や恐喝を担当しているうちに、その一歩も退かない姿を惚れられ、山口組の顧問弁護士を依頼された。組員たちの刑事裁判を扱う中で、世間から良く見られないことは判っていたが、人間としてのヤクザに強い関心を持ったという。

竹中はクラブのホステスを口説くのに、宝飾品やマンションを買ってあげるというような文句ではなく、「お前は誰を殺してほしいんだ?」と訊いたという。また五代目若頭の宅見勝は「男の仕事の中で、命が懸かるのはヤクザしかない。それが面白い」と言ったという。

ヤクザ集団の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。人種、貧富、職業…理由(わけ)があって、ヤクザにならざるを得なかった。そして、山之内が言うに、「親の愛情が欠落してしまった人たち」が多いという。すなわち、愛情をもって躾けられた子は絶対にヤクザにはならない。愛情をもって躾ければ、世の中にヤクザはいなくなるとも。反社会的勢力という言葉で片づけられてしまう人生のはぐれ者だが、その人の人生をもっと丁寧に掬いあげる必要があるのではないか。そんな思いに駆られた。