国立演芸場寄席 神田伯山「神崎の詫び証文」「忠僕元助」「万両婿」

国立演芸場寄席二日目に行きました。
「雷電の初土俵」神田若之丞/「井伊直人」神田松麻呂/「松山鏡」桂文治/漫才 オキシジェン/「河内山宗俊 玉子の強請」神田松鯉/中入り/「千早ふる」三遊亭笑遊/紙切り 林家今丸/「神崎の詫び証文」神田伯山
伯山先生の「神崎の詫び証文」。赤穂義士銘々伝ではあるが、神崎与五郎が主人公というよりは、馬喰渡世の丑五郎にスポットを当てた演出になっていて、この方がよりドラマ性を増す効果が出ているように思う。
丑五郎が神崎に馬に乗ってくれと頼むが、神崎は頑なに「一人旅がしたい」と拒み、終いには「馬は嫌いだ」と言ってしまう。侍が馬が嫌いとは何事かと酩酊していた丑五郎は食ってかかり、乱暴を働く。
武士に対し馬喰渡世がそのような悪態をつくのは無礼だ。神崎は当然、カチンときたが、ここで刀を抜いて斬ってしまうのは簡単だが、大石内蔵助と誓った仇討本懐を遂げるまではとグッと堪える。大事の前の小事。この恥辱を晴らしたことで討ち入りが台無しになっては、元も子もなくなる。
「馬を嫌いだと言ったこと、すまなかった。許してくれ」と、神崎は丑五郎の前で地べたに両手をついて、頭を下げる。土下座だ。丑五郎はそれでも虫が収まらず、詫び証文を書けと言う。神崎は素直に丑五郎に判るように、仮名で詫び証文を書いた。
丑五郎は溜飲が下がったろう。実は丑五郎がこのように強気に出たのは、何も酔った勢いというわけではなかった。自分が五歳のときに、目の前で父親が数人の侍に寄ってたかって足蹴にされているのを見て、悔しい思いをした体験があったのだ。以来、侍が嫌いになったという。伯山先生がこの背景が加えたことで、この読み物はより厚みを増したように思う。
その三年後。赤穂義士が吉良邸討ち入りに成功し、仇討本懐を遂げた仔細を講釈師の赤松清左衛門が取材し、義士伝を拵えて読んだ。その赤松が遠州浜松を訪れたときに、旅籠の主人に「義士伝を読んでくれ」と依頼され、大勢の人が集まった。その中に、丑五郎が混じった。
義士伝の中に「かんざきよごろう」という名前を聞いたとき、丑五郎は赤松に「その男は歳は三十半ば、色白の役者のような男か」と訊く。そして、詫び証文を書いたあの男が忠臣義士の神崎与五郎だと知り、「大変なことをしてしまった」と思う。詫びに行きたい、神崎様は今どこにいるのか?と問うと、「この世にはもういない。見事な最期だった。武士の鑑だ」と赤松が答える。
取り返しにつかないことをしてしまったと涙にくれた丑五郎は水谷重兵衛に手紙を書いてもらい、品川泉岳寺を訪ね、住職に事情を話す。生涯をかけて神崎様にお詫びをしよう。心に決めた丑五郎は七十八歳で天に召されるまで、泉岳寺の墓守として仕えたという。神崎が義の男なら、丑五郎もまた義の男ではないか。その思いを強くした高座だった。
国立演芸場寄席三日目に行きました。
「寛永宮本武蔵伝 狼退治」神田松樹/「大久保彦左衛門 将棋のご意見」神田梅之丞/「お血脈」桂文治/漫才 オキシジェン/「浅妻船」神田松鯉/中入り/「祇園祭」三遊亭笑遊/紙切り 林家今丸/「忠僕元助」神田伯山
伯山先生の「忠僕元助」。眼目は片岡源五右衛門の下僕である元助の忠誠の読み物だが、伯山先生はこれに粗忽な武林唯七を脇役として際立たせて、滑稽さを加味しているのが素晴らしい。
明日がいよいよ討ち入りとなって、片岡は元助に別れを告げなければいけない。だが、討ち入りの件は妻や子どもにも隠している。情報が洩れて仇討が失敗に終わることは許されない。片岡は五両の金と着物一重ねを元助に渡し、自分は物乞いとして零落するとか、伊達家へ仕官することが決まったとか、嘘八百を並べて元助を説き伏せようとするがうまくいかない。
元助は「奥方様からも決して主人から離れるなと言われている。主人の手となり、足となれと頼まれている」と頑なで、片岡と別れるくらいなら死んだ方がまし、どうぞ私の首を刎ねてくださいとまで言う。放っておくと、自分で喉を突いて自害するか、両国橋から身投げするか、下僕としての真っ直ぐな忠義心を貫こうとして、片岡は困惑しきりだ。
二人がすったもんだしているところに、大高源吾と武林唯七が訪ねて来た。武林は元助が片岡に無礼を働いていると勘違いして、思い切り元助を拳固で殴ってしまう。片岡が慌てて、元助に席を外してもらい、二人に事情を話す。
大高源吾と武林唯七は口を揃えて、元助ほどの忠義ある男は決して真実を話しても口外することはないだろう。すべてを打ち明ければ、元助は納得してくれるはずだと言う。片岡は承知して、元助を呼び寄せ、仇討の計略について説明する。「嘘をついてすまなかった。お前には長年仕えてもらったが、日本一の中間だ」。元助は涙をボロボロ流し、床の間に燈明を立て、仇討本懐、武運長久を祈った。
極月十四日、討ち入り決行の翌朝。赤穂義士四十七名が見事仇討本懐を遂げることが出来たということを知った元助は、皆は喉が渇いているだろうと思い、籠の中に蜜柑を入れ、義士たちがいる泉岳寺へ向かう。そして、主人片岡と再会。蜜柑を受け取った片岡は「やはり、お前は日本一の下僕だ」と褒める。そこへ武林がやって来て「俺にも蜜柑を3個くれ」。さらに敵の和久半太夫と戦った際に負った顔の傷を見て、元助は傷によく効く薬を渡す。元助は武林に突然わけもわからずに殴られたことなど笑い話にして、コミカルにその手柄を讃えているのが清々しかった。
赤穂義士は全員、元禄十六年二月四日に切腹。元助は故郷の群馬安中に帰り、出家して、二十数年かけて四十七士の石像を彫った。そして、千葉上総に移り住み、五十三歳で亡くなった。今も元助の墓が上総にあるという…。赤穂義士による仇討本懐は四十七士のみによって為されたものではない。元助のような彼らを支える人間がいて初めて成り立っている。それが赤穂義士「外伝」の魅力だろう。
国立演芸場寄席千秋楽に行きました。
「太閤記 長短槍試合」神田若之丞/「扇の的」神田鯉花/「源平盛衰記」桂文治/漫才 オキシジェン/「幡随院長兵衛 桜川五郎蔵との出会い」神田阿久鯉/中入り/「湯屋番」三遊亭笑遊/紙切り 林家今丸/「万両婿」神田伯山
伯山先生の「万両婿」。相生屋小四郎は死んだと決めつけて、女房おときは従兄弟の佐吉と再婚するという段取りを早々に決めてしまった大家の暴走が招いた悲劇。だが、大家の無責任ぶりにスポットを当てて、笑い沢山の喜劇に演出している伯山先生の工夫が素晴らしい。
箱根で追剥に遭い、身包み剥がされた若狭屋甚兵衛を小四郎は救ってあげたが、若狭屋は衰弱していたのか、小田原の旅籠の布袋屋で高熱を出した末、亡くなってしまった。若狭屋に身に付けていたものは全て小四郎から借りたもので、しかも財布に小四郎の住所と名前が書かれた書付が入っていたものだから、布袋屋は京橋五郎兵衛町の相生屋の住む長屋に連絡が行くのは当然だ。
亡骸が小四郎かどうか、大家と大工の藤助が小田原まで出向いて確かめに行ったが…。藤助は「顔が別人。体も小さい。違うんじゃないか」と何度も主張するが、大家は「いや、小四郎に間違いない」とろくに見もせずに決めつけてしまい、亡骸を引き取り、懇ろに弔いを済ましてしまう。
それだけならまだしも、女房おときに従兄弟の佐吉を後見につけて小間物屋を営ませ、一つ屋根の下で二人は暮らし、商売も繁盛する。佐吉が二十六、おときが二十四。間違いがおこる前に夫婦にしてはどうかという話になるが、このときも藤助は「気になっていることがある。小四郎はまだ生きているんじゃないか。せめて百箇日が過ぎてからにした方が良い」と主張し、佐吉もおときも同様に「まだ生きているかも…せめて百日経ってから…」と言うも、大家だけが「こういうことは温かいうちに決めた方がいい。私の見立てを信じろ」と強硬に再婚を決めてしまう。
案の定、小四郎は帰って来た。大家は「私は悪くない。皆がめでたし、めでたしだったのに…。何で帰って来ちゃったんだ」。小四郎も佐吉も口を揃えて「ろくな大家じゃない!」。勿論、おときも「小四郎さんは何も悪くないのに…許せないと思うのは当然…可哀想」と言って、同様に「ろくな大家じゃない!」。大家のせいで、妙な三角関係が出来てしまった。もう、大岡様に裁いてもらうしかない。
大岡越前守は「おときは佐吉にやっておしまい。店も佐吉とおときにやっておしまい」と大家と同じことを言うが、その後が違う。若狭屋未亡人のよしは二十一歳の器量良し。しかも、身代は三万両。主人を亡くして奉公人一同困り果てている。小四郎は二代目若狭屋甚兵衛を名乗って、婿入りするという新しい道に導いた。三方が丸く収まる名裁きを滑稽味満載で読む伯山先生に拍手喝采の高座だった。

