林家きよ彦独演会「代行サービス」「憧れ」、そして演劇「いのこりぐみ」

林家きよ彦独演会に行きました。「代行サービス」「でもね」(作・神田茜)「憧れ」の三席。
「代行サービス」。退職代行など様々な“代行サービス”がはびこる世の中を諷刺した傑作だと思う。箪笥職人の親方の許で三年間厳しい修業を積み、免許皆伝を得て、独立を許された男が実は「修業の代行サービス」業者だったとは。昔気質の親方は「見て盗んで覚えろ」と言うが、現代の若者はタイパ(タイムパフォーマンス)が悪いと思う。プロにはなりたいが、わざわざ修業したくない。親方の檜の箪笥作りを動画に撮って、YouTubeにアップしたら、200万回再生に達したという…。そして、この代行サービスの依頼主が実は「女は職人にはなれない」と否定された娘のユキエだった…。きよ彦さんの視点、センスの良さが光る一席だ。
「憧れ」。北海道の人間は東京に憧れるが、逆に東京の人間は北海道に憧れるという逆転現象を皮肉たっぷりに描いている。ナカメ(中目黒)のフレンチレストランの人気メニューはアスパラ1本にホワイトソースをかけてお皿に載せた料理。映画館は単館の150インチスクリーンのミニシアターがお洒落とされ主流になっている。タピオカはもう誰も飲まなくて、今は唐揚げに行列ができている。でも、その行列は千葉、埼玉、茨城、北千住から来た人ばかり。ディズニーランドに行く人も同様。東京から北海道にUターンしたサトミからこれらの話を聞いて、札幌在住のミキ先輩は目を白黒。
ミキの友達のニセコの山奥に住むミサトがやって来たところで、立場は逆転するのが可笑しい。ナカメのフレンチレストランのアスパラはミサトの父親が出荷、そこで出されるオーガニックワインは祖父が監修している。映画館は皆潰れて、その代わりに国際映画祭を開催して、世界的な俳優が沢山やって来る。エンタテインメントといえば、夏はカヌー、冬はスキーかスノボで、インストラクターをやっていて、そこで知り合ったオーストラリアのヘンリーと仲良くなって、英語がペラペラに。仕事は田舎なので会議はすべてズーム、休日は薪ストーブにあたりながら、150インチのホームシアターでネットフリックスを観ている…。今度はサトミが目を輝かして「憧れるう!」(笑)。傑作である。
演劇「いのこりぐみ」を観ました。作・演出:三谷幸喜。
モンスターペアレント、略してモンペというそうだが、学校教育の現場でそういう問題が出てきているということは聞いたことがあったが、僕には子どもがいないので現実的な問題として実感したことはない。僕の小学生時代は昭和40年代後半から50年代前半だが、その頃にそういう言葉はなかったし、そういう問題も出現していなかったような気がする。まあ、僕が知らないだけで、あったのかもしれないけれど。
でも、大体の想像はつく。自分の子どもに関する教育や指導が間違っているのではないかと担任教師にクレームをつける気持ちがわからないでもない。ましてや他の児童を高く評価し、自分の子どものことは蔑ろ、さらには否定的に扱われたりしているとしたら文句も言いたくなるだろう。だが、その親の主張や要求があまりにも我が子可愛さから出る自己中心的なものであるとき、教育現場ではそれを「モンスターペアレント」と呼び、問題視するのだろうと想像できる。
僕が小学生だった昭和の時代にはまだ、「先生は絶対的な存在」「先生の言うことはちゃんと聞きなさい」という半ば崇拝的な考えが親の中にあって、教師が信頼できないという不信感のようなものがあってもなかなか口に出せないような空気がPTAの間にあったのではないか。少なくとも高度経済成長期の日本の社会においては。
それがいつのまにか学校の成績を5段階評価することをやめるとか、運動会の徒競走で一等賞やビリといった順位をつけることをやめるとか、学芸会で披露するお芝居の脚本を皆が均一の台詞を喋るようにして主役を作らないようにするとか、学校教育に「競争」という概念を排除するようになり、「何か」が変わっていった。それは教師が児童の保護者たちに忖度をするようになったと捉えることはできまいか。
ゆえに、保護者の間に教師に対して「モノを言っていいんだ」という考えが浸透し、それは民主主義として寧ろ良いことなのかもしれないが、そのことによって教師と保護者の間に成り立っていた崇拝的なバランスが崩れたことは言えるだろう。受験戦争という悪を排除するという名目で、ゆとり教育という発想が生まれ、それは個性や自主性を尊重する教育現場としては理想的に思えた。だが、受験戦争は僕らの頃よりさらに過熱しているらしいし、ゆとり教育の弊害が今盛んに叫ばれている。
モンスターペアレントから少々脱線してしまったが、この芝居の舞台、くすのき小学校5年B組で児童の母・熊澤コマ子(菊地凛子)が「クラス担任の交代」を要求してきたことは物語の前半でかなり我儘な主張、要求に見えた。だが、後半になると野々村教頭(相島一之)と嶋教諭(小栗旬)が担任の白石教諭(平岩紙)と熊澤を交えてディスカッションを重ねる中で、白石の様々な言動を具体的に検証すると、その教育方針に歪みがあることが浮かび上がってきた…。
三谷幸喜氏はパンフレットのインタビューの中でこう語っている。
モンスターペアレントについて調べていくと、「モンペへの対処法」的な本はたくさん出てるんですよ。それは学校側の立場から書かれているから当たり前なんだけど、大前提として「モンペは間違っている」というところから始まっているものが多いことに気づいた。だったらもし、モンペの方が正しいことを言っていたら?そこに辿り着いた時に、なんとなく芝居全体の骨格が見えてきた。モンペにからまれている気の弱い教師の方が、実はとんでもないキャラだった、みたいなストーリーが出来上がったんです。以上、抜粋。
白石教諭は動物園のキリンの絵をクラスの児童たちに均一の構図や配色で描くように指導した。だが、児童のひとりである熊澤哲夫がそれに反発して、全く違う構図と配色のキリンを描いて提出した。すると、白石は熊澤の絵だけ教室に掲示するのをやめて除け者扱いにした。個性や自主性を重んじる現代の教育現場への背徳行為なのかもしれない。だが、均一化して児童を教育することの方が教師としては楽だし、安心だ。個性尊重の手法は疲れる。いわば、白石は昭和の価値観である崇拝的、絶対的存在である教師であることを望んでいたとはいえまいか。
学校教育の在り方を問うというと大袈裟に聞こえるかもしれないが、モンスターペアレントの問題というよりも、「均一vs個性」という学校教育が抱える命題を提示している芝居として僕は興味深く拝見した。

