【知恵泉】菊池寛 芥川賞・直木賞を作った文豪社長

NHK―Eテレの「知恵泉 菊池寛 芥川賞・直木賞を作った文豪社長」を観ました。

菊池寛は明治21年、香川県高松市に生まれ、図書館の本を読み漁る文学への憧れを抱く少年だった。明治43年、旧制第一高等学校(現在の東京大学)に入学するが、友人の濡れ衣を被る形で退学。大正2年に京都帝国大学に入学した。一高時代の文学仲間から誘いを受け、「坂田藤十郎の恋」を執筆するも、芥川龍之介が「丹後縮緬のような台詞。永井荷風や谷崎潤一郎の糟粕を嘗めたような作品」と酷評し、没となった。要は下手くそなパクリだというわけだ。

一方、芥川は大正5年に「新思潮」創刊号で発表した「鼻」を夏目漱石が高く評価し、菊池は心の底から嫉妬を覚え、挫折した。菊池は新聞記者となり、社会部に配属される。そのときの経験がその後の文学に生きる。庶民の目線、大衆の目線で作品を構築するようになったのだ。とはいえ、作家としては鳴かず飛ばずであった。

あるとき、中央公論から原稿執筆の依頼が舞い込む。これは皮肉にも芥川の売り込みによるものだった。菊池は千載一遇のチャンスと捉え、大正7年に「無名作家の日記」を発表。流行作家に嫉妬する売れない作家の葛藤を描いたこの作品はそのまま、芥川と菊池をモデルにしたものだった。その内容はセンセーショナルで、世間をあっと言わせた。その後も「忠直卿行状記」や「恩讐の彼方に」など、人間の心理に迫る作品を書き、流行作家の仲間入りをする。

大正9年には新聞に「真珠夫人」を連載。主人公の女性が男たちを次々と破滅させるストーリーと、当時の価値観である「良妻賢母」を覆すテーマが、当時高まっていた婦人運動の空気を反映させるもので、社会的地位向上を目指す女性の心を掴んで、空前の大ヒットとなった。ここにも大衆の目線が生きているといえるのだろう。

菊池は大正12年に「文藝春秋」を創刊、自らが出版社の社長となる。発行部数は3000部だった。創刊の挨拶として、菊池はこう書いている。

私が知っている若い人達には物が言いたくてウヅウヅしている人が多い。一には自分にため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。

作家を志す若者にモノを言う場を与え、その上原稿料を払う。だが、同人誌ではいけない、売れてナンボだと考えた。新進気鋭の作家の硬派な作品を掲載する一方で、ゴシップ記事を載せた。文壇諸家価値調査表と題して、作家の女性の好みや性欲の強さなどを採点する企画など、読者を喜ばすことを第一に考えた。

さらに、大正15年には文芸誌から総合誌にリニューアルする。「六分の慰楽、四分の学藝」をモットーにした。中でも誌上座談会はヒット企画で、世俗をテーマに好き放題語ってもらい、発行部数はうなぎ登りに増えた。地方講演、今で言うファンミーティングのようなものも開き、読者のターゲットを広げた。創刊号3000部が、5年後には18万部になったというから驚きだ。

昭和2年に芥川龍之介、昭和9年に直木三十五が亡くなると、芥川賞と直木賞を創設。賞金500円は当時の小学校教諭初任給の1年分に当たる。いわば「文芸のイベント化」によってマーケットを広げ、純文学と大衆文学の発展に寄与したことは菊池寛の大きな功績だと思った。