映画「落語家の業」、そして柳枝百貨店 春風亭柳枝「火事息子」

映画「落語家の業」を観ました。

快楽亭ブラックというと、どうしても下ネタや差別、皇室などタブーをテーマにしていて、「悪ふざけ」が過ぎる落語家というイメージを持っていた。新作ネタのタイトルも「文七ぶっとい」「イメクラ五人廻し」「SM幇間腹」…思わず顔をしかめたくなるものばかりだ。師匠を紹介する映像もインパクトがあるからなのか、SMプレイにあるような裸体を紐で縛られている高座姿をよく見かけ、目を覆いたくなってしまうという印象を持っていた。

だが、この映画に出てきた1998年の国立演芸場の高座は実に精悍で、口跡も良く、素晴らしいもので、そのギャップに驚いた。何と90年に花形演芸大賞金賞、91年に年間特別賞、そして2000年には文化庁芸術祭優秀賞を「英国密航」と「道具屋」で受賞しているというではないか。落語がちゃんとしている上での「悪ふざけ」であることがわかった。

映画の中でブラック師匠はこう言っている。「俺の辞書にマジという言葉はない。人生をすべて洒落のめす」。私生活も含めて自分のすべてにおいて芸人魂を貫き通すということなのか。昨今喧しいコンプライアンスなんて言葉が使われるようになる数十年前から、常識破りな男として世間からつまはじきにされるような高座、そして言動をしてきた。そのブラック師匠の生き様を今回、ドキュメンタリー映画として世に出すことは、コンプライアンスでガチガチに固められて、現代から消えて行く文化になるかもしれない落語の在り方を考える上での良いアンチテーゼになっているとはいえまいか。

2014年に家賃滞納のために強制執行で差し押さえされる当日の大須演芸場。マスコミ各社も押しかける中、満席の客席とともにブラック師匠は落語を演りながら、執行官の登場を待つという映像はすごかった。強制執行をこんなお祭り騒ぎにしてしまうという諧謔精神こそ、落語という笑いの原点ではないか。

2020年には元弟子のブラ坊がパワハラ、セクハラでブラック師匠を訴えた民事訴訟。師匠は快楽亭ブラックの名前を一時的に「被告福田」と改めて高座に上がる。さらに裁判所に出廷するときは、チンドン屋を雇って「被告福田でございます」と話題を作る。判決は損害賠償30万円だったが、ブラック師匠はあえて30万円で有馬記念の単勝馬券を買い、見事に当ててしまうという…。どこまでも、「洒落のめす」ことを忘れない。師匠に言わせれば、これが「粋」というものなのだろう。いやあ、畏れ入りました。

「柳枝百貨店~春風亭柳枝独演会」に行きました。「かつぎや」「狸札」「転宅」「火事息子」の四席。開口一番は柳亭市助さんで「真田小僧」だった。

「火事息子」。冒頭、徳之助が病床の母親と再会し、「お前のいないこの家で長生きしても意味がない」と言われ、「俺が帰ってきたら、ちゃんと薬を飲んでくれるのか」とやりとりをするが、それは夢だった…。うんうんとうなされていたので臥煙仲間に起こされ、気が付いたら涙を流していたという演出は噺の最後の母親との本当の再会を示唆していて良いと思った。

火事見舞いに来たのが三河屋の倅で、徳之助とは同い年。父親が「立派になられて、安泰だろう」と、息子を勘当してしまった自分と較べてしまい、羨ましい気持ちになるのはよくわかる。だが、父親というのは意地がある。身体に九紋龍の彫物のある自分の息子に対して、「長生きすると見たくないものを見なきゃいけない。大層な絵をお描きになりましたね」と嫌味しか言えず、「義理を知っているなら、そんなナリでこの辺をウロウロしてほしくない」と文句を言うことしかできないのが哀しい。

それに対して母親は素直だ。「よく帰っておいでだ。私は嬉しい。お前がいなくなってから、店は灯が消えたようになってしまった。いくら身代が大きくなっても、何にもならない。お前の親父だって、いつも庭をぼんやり見ているんだ」。さらには「風の噂で火消になったことは知っていた。だから、近所で火事でもあれば、お前に会えるかもしれないと思うほどだった」。

世間体を気にして、口では「出ていけ」と言う父親に対し、母親は「世間様は世間様だ。了見も直ったようだし、家に入れてあげてください」と言う。「あなたの子かもしれないが、私の子でもある」と、子を思う親の情愛というものを前面に出しているのが良い。

そもそも、徳之助が火事好きになったのも父親が世間体を気にしたことに端を発するという母親の論。この子は私の手で育てると言うのに、お前さんは「うちは江戸で五本の指に入る大店だ。その手前、乳母を置かないと世間の笑いものになる」と言って、火消の伝七の後家、お埼を乳母にした。このお崎が大の火事好きで、火事があると、この子を背負って火事見物に出かける。与えるおもちゃも纏や半鐘…。これでは徳之助が火事好きになるのも当たり前だ。父親は完全に一本取られた形である。

可愛い我が子の徳之助に何か持たせてやりたい。すると、父親は「そんなもの、捨てちまいな」と言う。母親が「捨てるくらいなら…」と言いかけたところで、父親は「捨てれば拾う奴もいるだろうから、捨てろというのだ」。父親も心の底から息子を憎んではいない。ただ、母親のように素直に愛情表現することができないのだ。「着物は箪笥ごと捨てましょう」「お金は千両ばかり捨てましょうか」。親子の情愛に痺れた。