柔と剛 柳家三三「山崎屋」、そしてパルコ・プロデュース「シャイニングな女たち」

「柔と剛2025~柳家三三独演会」に行きました。「しの字嫌い」と「山崎屋」の二席。ゲストは桂二葉さんで「くしゃみ講釈」、開口一番は三遊亭萬都さんで「花色木綿」だった。
「山崎屋」を聴く度に番頭の久兵衛の利発さを思う。隣町に表向き清元某という看板を出させ、元柳橋の芸者を囲っているが、若旦那には見つかったが何食わぬ顔をして、「横山町三丁目鼈甲問屋山崎屋の番頭久兵衛は堅い」と言われ、「野暮でも番頭は勤まります」と言ってのけるのだからすごい。
その利発さを生かして、若旦那の遊郭通いを辞めさせる若旦那が納得する筋書きを考え出し、それを敢行して見事に成功させるのだから。この手練れの番頭がいる限り、山崎屋は安泰だと思う。
その筋書きは緻密だ。まず、若旦那に廓通いを三か月辛抱させる。その間に若旦那と相思相愛の花魁を身請けし、鳶頭の家に「屋敷奉公していた女房の妹」ということにして預ける。そして、赤井御門守様への百両の掛取りという大事な任務を「若旦那は改心したから」と大旦那を説得して、若旦那に任せる。
若旦那は掛取りを終えた百両を鳶頭のところへ持って行く。そして、お店に帰るが、大旦那の前で「財布が懐にない、はてな?」と困惑する芝居をする。大旦那は「やはり改心していない。大方、友達のところに預けて遊ぶつもりだろう」と思ったところで、鳶頭が「財布を拾った」と駆け込んでくる。若旦那は今度ばかりは了見を入れ替えたのだと思わせる。
大旦那に財布を拾ってくれた御礼をしに鳶頭の家に行かせる。一割の十両の目録とにんべんの二分の切手を持って行けば、鳶頭は江戸っ子だから必ずにんべんの切手しか受け取らないからと番頭は大旦那に言い聞かせる。そのときにお茶を運んで来た女性に目が留まる。鳶頭は「女房の妹。箪笥長持五棹、持参金に五百両を付けてどこかへ縁付けたいのだが」と言うと…。この話に大旦那が飛びつかないわけがない。「是非、倅の嫁に!」となるという…。
狂言作者顔負けの番頭の筋書き。花魁を身請けする金はお店の帳面を誤魔化して何とかする。世の中、表もあれば、裏もある。狡いようだが、若旦那がこのままずるずると吉原狂いで散財することを考えれば安いものだという賢明な判断だと思う。また、番頭が大旦那の性格を熟知しているからこその筋書きだということも言えよう。以来、若旦那は商売に精を出しているというのだから万々歳だろう。
所詮、落語だからスイスイと事は運ぶのだというかもしれないが、処世術として大いに学ぶところがある噺だと思う。
パルコ・プロデュース「シャイニングな女たち」を観ました。作・演出:蓬莱竜太。
青春譚である。けれど、心がヒリヒリする青春譚だ。お芝居だけでもヒリヒリするのに、さらに僕自身の青春時代と重ね合わせてしまい、もっとヒリヒリした。主人公の金田海(吉高由里子)は、なでしこジャパンのW杯優勝に触発されて、大学に女子フットサル部を作る。集まったメンバーはギリギリの6人。それにサッカー経験のある教師に顧問兼監督を依頼し、フットサル部はスタートした。だが、この7人の女性の間には様々な感情の揺れ動きがあって…。嫉妬、疑念、憧憬、傲慢、自負、虚栄、発奮、挫折…。それは大学卒業後にも尾を引いていて…。舞台を直視しつつ、僕自身の過去と照らしながら、次から次へと湧きあがる物悲しい気持ちを抑えることができなかった。
プログラムで蓬莱竜太氏はインタビューでこう語っている。
自分はキャプテンとしてうまくやれたと思っていたけれど、実はチームの中にはいろいろな想いが交錯していたことを、現代のタイムラインで知ってしまう。そういったところに吉高さんに身を置いてもらうのはアリかもしれないなと。もちろん吉高さんが主役ではありますが、多くの人がイメージする主役とはまた違う、だんだん転落していくような、そういう中でもがいている主役を吉高さんにやってもらうのは面白いのではないか、と思ったんです。(中略)
今回吉高さんが演じる金田海というキャラクターは、いろいろなことで人を傷つけてしまったり、その結果苦しんだりもするわけですが、やっぱりこれが主役なんだというポイントはある。やはりどうしたって吉高さんはカリスマ性も、吸引力もありますから。彼女が持っているそういった素養も用いつつ、ちょっとそこを汚したり、光らせたりしてずらすというか。以上、抜粋。
この芝居は「人間同士の気持ちのすれ違い」を描いている。蓬莱竜太氏はプログラムで「こんな世界であっても」と題し、こう書いている。
この物語の登場人物たちは無自覚に絶妙にすれ違ってしまう。悲しいことだが、それはあり得ることだ。同じものを見ているつもりでも、それぞれの主観が別のものを映し出している。それゆえに自分が放った一言が別の意味に相手に伝わったり、自分に放たれた発言に苦しんだりする。たいていは無自覚であり、そこに悪意はない。お互いを擦り合わせる機会などなく、物事は勝手に進んでいく。当たり前だが僕はこの物語の登場人物を生み出した者で、だからそれぞれがどういうつもりで発言しているのか、そしてどういうことですれ違っているのかよくわかる。それぞれが歯を食いしばりながらそれぞれの戦いをしていることを知っている。悪意がないのも知っている。しかし、どうしようもなく、不確かな人間たちはすれ違い、歪んでいくのだ。その歪みに気づく者、無自覚な者、痛む者、問題視しない者、それもまたそれぞれだ。人はなんとも複雑で、いかんともしがたい。以上、抜粋。
観劇後に蓬莱竜太氏のこの文章を読んで、胸にこみあげる熱いものを感じた。


