【アナザーストーリーズ】沖縄が熱く燃えた夏 甲子園に託した夢

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 沖縄が熱く燃えた夏 甲子園に託した夢」を観ました。

1990年の夏の甲子園で沖縄水産高校が決勝に進出した。そのときの監督が栽弘義、沖縄県民の様々な思いを背負って指揮を取った炎の男である。2007年に65歳で逝去したが、栽の足取りを辿るドキュメンタリー前半に感動した。

1952年。日本は主権を回復したが、沖縄はアメリカの統治下に置かれた。高校野球でも、九州勢との代表決定戦を突破できず、甲子園への道は遠かった。58年、第40回記念大会で沖縄単独の出場枠が設けられた。当時、糸満高校野球部の外野手で5番バッターだった栽は沖縄代表の決勝で首里高校と対戦するも、破れて代表を逃す。首里高校も甲子園初戦で敦賀高校に完封負けを喫し、壁の厚さは否めなかった。首里の選手たちは甲子園の土を持ち帰ろうとしたが、植物防疫法に触れ、船上で捨てる屈辱を味わう。

栽は中京大学に進んだ後、1964年に地元沖縄の小禄高校に赴任。米軍機墜落事故や米軍兵婦女暴行事件などが起き、沖縄は戦争を引きづっていた。70年のコザ騒動は、アメリカ軍車両を焼き打ちするというもので、沖縄の人たちの怒り、悲しみは収まることがなかった。

栽は1945年の沖縄戦体験者だ。姉三人を戦争で亡くし、一人生き残った罪悪感に苛まれ、ウチナーンチュの悔しさ、理不尽、不条理を野球に乗っけて戦おうとした。71年に豊見城高校の監督になる。72年、沖縄が本土復帰。75年にセンバツで甲子園初出場を果たすと、以降春夏通算7回出場。ベスト8が4回、「豊見城旋風」と呼ばれた。勝たないと前へ進まないという信念で指揮を取った。

1980年に沖縄水産高校の監督になる。野球部は甲子園には程遠い環境で、ゼロからの再出発だったが、県内から優秀な選手をスカウトし、戦力強化を図った。85年に甲子園出場、88年には沖縄勢初のベスト4に進出した。本土に追いつき、追い越せ。全国制覇を目指した。

1990年夏。本土復帰の年に生まれた野球部員たちが快進撃を続け、初の決勝進出を果たした。8月21日。初の頂点まであと一歩である。5万5千人の観客席はもちろん、地元沖縄那覇の平和通り商店街の応援もボルテージが最高潮に達した。相手は奈良代表の天理高校。4回に犠牲フライで先制されるも、その後は投手戦が続き、0-1のまま9回裏の攻撃を迎えた。2アウト二塁。バッターは横峰。このとき普段吹いている浜風とは逆の向かい風が吹き、ホームラン性の打球は惜しくもレフトフライに終わった。

沖縄水産は負けたが、沖縄勢の強さをアピールすることができた。様々な境遇のウチナーンチュが一つになって、その思いを高校野球に乗せた名勝負だった。栽監督は達成感に満ちた晴れ晴れとした顔をしていた。

甲子園における沖縄勢の活躍を支えたのが、私設応援団の応援だった。沖縄から関西に出てきた沖縄県人会で構成されていた。団長だった糸数勝彦は両親が沖縄から戦後大阪に移り住んだ「二世」だ。沖縄人ということで、就職やレストランの入店などでも差別を受けたという。高校時代に応援部だった糸数は「本土並みに勝たせたい」と自ら団長を買って出た。

応援で欠かせないブラスバンドの指揮をするのは羽地靖隆。市立尼崎高校の音楽教師だが、「関西に住む沖縄出身者の心の拠り所を」と兵庫沖縄県人会の依頼を引き受けた。62年に沖縄から尼崎に移住した。

応援の盛り上がりはご存知、「ハイサイおじさん」だ。喜納昌吉の作詞・作曲。喜納はこの歌について、こう書いている。

村のはじき者なのに僕はなぜか、おじさんのことが好きだった。戦争で傷つき、荒れ果ててしまった沖縄の痛みをすべて自分の体で吸収しながら、ただ黙って笑っていたんじゃないだろうか。

この曲はいい!と糸数が思いつき、羽地に提案し、賛同を得た。88年の甲子園で初めて披露し、沖縄水産はベスト4に進んだ。チャンス到来のときに「ここでいけ!」と演奏の合図を出すのがポイントだという。沖縄水産は90年に続き、91年も準優勝。「沖縄に優勝旗を」という熱い思いを後押しした。そのお陰か、99年センバツ、2008年センバツで沖縄尚学が優勝を飾る。2010年のセンバツでも興南が優勝した。

そして、同年の夏の甲子園。興南が春夏連覇を狙った。だが、応援で「ハイサイおじさん」を封印してしまう。羽地いわく、「酒びたりの人の歌を応援歌に使うのはいかがなものかという苦情が出たから」。それでも、興南は準決勝に進出した。

相手は報徳学園。0-5と負けていた5回。応援席から「ハイサイおじさんをやってくれ」と声があがった。2点が入り、なおも追撃する興南ナインを奮い立たせようと、羽地がハイサイおじさん演奏を決断する。主将の我如古盛次がタイムリーを放ち、2点差に。7回には、また我如古が打って同点に追いついた。そして、最後は逆転勝利。ハイサイおじさんによる魂の応援が勝利を呼んだ。

決勝の東海大相模戦でも勝利し、ついに夏の甲子園で沖縄勢悲願の優勝を果たした。我如古はインタビューで「沖縄県民で勝ち取った優勝です!」と感謝し、地元沖縄も歓喜に沸いた。

2022年5月15日。沖縄本土復帰50年。栽監督の写真展が開かれた。甲子園29勝。夏の甲子園制覇を見ることなく、あの世に逝ってしまったが、娘の志織さんは「お父さんはきっと喜んでいると思います」と語った。

戦争という重くて暗い過去を背負いながらも、それを跳ね飛ばすように甲子園での勝利にこだわった男たちの足跡に胸が熱くなった。