熱談プレイバック 手塚治虫一代記

NHK総合テレビ「熱談プレイバック 手塚治虫一代記」を観ました。

神田阿久鯉先生の講談とNHKなどに残るアーカイブ映像のコラボレーション番組である「熱談プレイバック」は第1回の千代の富士に続き、第2回は手塚治虫の一代記。素晴らしい番組だった。

マンガの神様と呼ばれた手塚治虫、昭和38年に放送がスタートした日本初の長編テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」は実に40.7%という視聴率を記録した。その手塚治虫の生涯を三席に分けて構成している。

まず一席目は「誰も見たことがないものを!」。

治虫は昭和3年11月3日に生れた。「のらくろ」や「フクちゃん」などの漫画に触発され、小学生だった治虫少年は「ピンピン生ちゃん」という漫画を描いて、同級生が回し読みしていたという。それを見つけた担任教師が取り上げ、呼び出されると、てっきり怒られると思っていった治虫に教師は「続きはどうなるんだ?」と訊いたという。教師の間でも面白いと評判でだと聞き、治虫は「漫画で一番になろう!」と決意する。自分の得意なものを伸ばし、それで高みを目指そうという心意気が素晴らしい。

昭和21年、漫画家としてデビュー。新聞で連載する四コマ漫画「マアチャンの日記帳」である。四コマでは表現できない壮大なストーリーを描きたい、そう思っていた治虫に200頁の長編の依頼が舞い込む。描いたのは「新寶島」。従来の漫画は同じ方向、同じサイズの連続だったが、治虫は映画のカメラワークを参考にしたロングショット、ミドルサイズ、アップの使い分けで“絵が動いている”ように見えると評判を取り、40万部の大ヒットとなった。

「地底国の怪人」「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」…快進撃は続く。雑誌の連載も増えた。「ジャングル大帝」「サボテン君」「ぼくのそんごくう」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」…。昭和36年には作家、画家部門で長者番付のトップに立った。

昭和37年に虫プロダクションを設立。アニメーション製作スタジオを作った。子どもの頃に父親に見せられたディズニーアニメの感激が忘れられなかったのだ。1話30分、毎週放送のテレビアニメ「鉄腕アトム」という前代未聞の挑戦にとりかかる。だが、10数人というスタッフでは余りにも人手が足りない。治虫は「アニメの開拓者になる!」という志を持ち、挫けなかった。

アニメは“滑らかに進むもの”という常識を覆し、静止画を描いて、背景だけが動くという技法を編み出す。また、何度も同じ絵を使い回すという手法で乗り切る。「大事なのはストーリーだ」という信念によって、昭和38年元日にアニメ「鉄腕アトム」はスタートした。人間とロボットと平和を描いたこの作品は4年間放送され、日本がアニメ大国と呼ばれる礎となる大革新を遂げたのだ。

二席目は「ド真中で咲きたい!」。

治虫が創作した260以上のキャラクターの中で抜群の人気を誇るのは、天才外科医のブラック・ジャックだ。このキャラクターがどのような経緯で生まれたか。

昭和44年に大人向けの「千夜一夜物語」、昭和45年に官能的な「クレオパトラ」を発表した治虫だが、虫プロは400~500人のスタッフを抱え、その方向性の行き違いから経営が傾き、遂には倒産してしまう。

漫画の世界も若手が台頭し、“劇画”がもてはやされるようになる。若者向けで、写実的な絵、シリアスでリアルなストーリーが好まれた。少年漫画では「巨人の星」や「あしたのジョー」が人気を博した。手塚治虫の漫画は「もう古い」「お子様ランチ」だという声が囁かれ、連載打ち切りも少なくなかった。

試行錯誤の末に、性教育をテーマにした「やけっぱちにマリア」、心の闇を描いた「アラバスター」などを世に出したが、ヒットにはつながらない。治虫自身、自分の漫画は陰湿で暗いとスランプを認め、谷底に落とされた状態だった。

そんなとき、週刊少年チャンピオンの編集長だった壁村耐三から「一話読み切りで、3話から4話を思い切り描いてほしい」と依頼があった。治虫は“神様がくれた最後のチャンス”と思い、奮い立った。大学の医学部を卒業し、医師の国家試験にも合格している治虫は「医療マンガ」を描きたいとかねてより思っており、その切り札を使うことを決意する。

無免許の外科医、ブラック・ジャックというダークヒーロー、アウトローを主人公にした漫画である。劇画ブームに負けたくない、こういうものも描けるんだぞ!という意志表明でもあった。「ブラック・ジャック」は当たり、連載が決まり、大ヒットとなる。そして、50年以上の大ベストセラーとなった。治虫は起死回生のホームランを打ち、長いトンネルを抜けたのだ。根性である。

三席目は「頼むから仕事をさせてくれ!」。

その後も、「三つ目がとおる」「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などを発表。睡眠時間は1~2時間。身体にガタがきていた。手が震えて、円が描けない。

昭和63年、59歳のときに腹部に痛みが走り、胃潰瘍で入院した。胃は2/3切除した。そして医師は妻に「胃がんだ」と告げた。本当のことを言おうか、胃潰瘍で通そうか、妻は悩んだ。結果、がんであることは伏せた。

猛烈に働く治虫だが、食欲はなく、段々と痩せ細る。がんは肝臓に転移し、再入院したが、治虫はベッドの上でも描き続けた。必ず元通りになると、仕事への執念は衰えることがなかった。そして、平成元年2月9日、還らぬ人となった。

その頃の日記が見つかった。すばらしいアイデアを思いついた。トイレのピエタというのはどうだろう。癌の宣告を受けた患者が何一つやれないままに死んでいくのはばかげていると入院室のトイレに天井画を描き出すのだ。

治虫は自分ががんだということを知っていたのかもしれない。命が尽きるギリギリまで創作への思いが尽きなかったのだ。治虫はインタビューでこう言っている。「絵が描けない。アイデアだけはバーゲンセールしてもいいくらいあるんだ」。

享年六十。マンガ、15万ページ。アニメ、60タイトル。執念の創作人生だった。おさ虫の輝き永和(とわ)に冬銀河。素晴らしい手塚治虫一代記だった。