講談協会定席 神田あおい「猿ヶ京片耳伝説」

上野広小路亭の講談協会十二月定席に行きました。

「一心太助 旗本との喧嘩」田辺凌々/「三方ヶ原軍記」神田ようかん/「柳生十兵衛生い立ち」宝井優星/「辻平内」神田こなぎ/「大岡政談 鴨裁き」田ノ中星之助/「中江藤樹」田辺一邑/中入り/「馬場の大盃」一龍斎貞弥/「猿ヶ京片耳伝説」神田あおい

一邑先生の「中江藤樹」。陽明学の祖の幼き日の物語。藤太郎が8歳のときに父が早逝、母のお市は息子の成長を願い、伊予の大洲に暮らす祖父のところへ藤太郎を預ける。立派に成人するまでは母の許へは帰ってきてはならないと言い聞かせたことは、藤太郎にとっても厳命だが、母お市にとっても身を切る思いの覚悟であったと思う。

藤太郎10歳のとき、母お市からの手紙を祖父が読むと、そこには近江小川村での比叡おろしの厳しい寒さゆえ、手足にひびあかぎれができて難儀する旨が書いてあり、それを知って藤太郎は涙を流した。何か良い薬はないかと調べると、本町の薬局の膏薬が効くと知り、買い求めた。そして、この薬を母に届けたいと一心に思う。

藤太郎は決心し、祖父の目を盗んで家を出て、小川村に向かう。金を持っていないので野宿を繰り返す旅だったが、大坂を抜けて近江に入ったところで、雪が降り、疲れと寒さとひもじさで道に倒れてしまった。それを見つけた遠藤源左衛門という商人が助け、手厚く介護して、事情を訊くと、路銀を用立ててやって、藤太郎は無事に小川村に到着することが出来た。

母上!と呼ぶとお市は「なぜ帰ってきたか」ときつく問う。母のひびあかぎれを心配し、薬を持ってきたと言うと、お市は「いらぬことを書いて、あなたの修業の邪魔をしてしまった。申し訳ない」と言って、薬は受け取るが、「さあ、伊予へ戻りなさい」と藤太郎に言う。立派に成人するまでは我が家の敷居は跨がせないと言ったはず、それを中途で戻ってくるとは約束が違う、祖父や亡くなった父上に申し訳がない、一度約束したことを違えてはならないと叱る。

「一晩だけでも…」と乞う藤太郎に対し、「わたしはそのような子に育てた覚えはない。もし、戻らないと言うなら、親でもなければ子でもない。戻れと言ったら、戻らぬか」ときつく言う。すると、藤太郎は「家に帰ったことはお許しください。どうか、私を嫌いにならないでください」と謝る。お市は「たとえ何があろうとも、そなたを嫌いにはならない」。

そう言って、藤太郎の草鞋の紐を結び直してやる。襟元に藤太郎の涙がポタリポタリと落ちるのが分かり、母にも熱いものがこみあげてくる。藤太郎は気丈に言う。「今度来るときは立派になって帰ってきます。そのときこそ笑って家に入れてください」。背中を向けて歩き出した藤太郎が一瞬、こちらに振り向くが、お市は戸をピシャリと閉める。

「母上!このまま伊予に戻ります。今一度、お顔を見せてください」と言うが、お市はここが辛抱のしどころと思い、聞こえないふりをする。藤太郎は母の決心を悟ったのだろう、去って行く足音だけが聞こえる。そして、我が子の姿は見えなくなった…。そして、お市は仏壇に手を合わせ、父の位牌に向かって「息子が無事に伊予に戻れますよう」祈り、その場に泣き伏したという…。

この母にして、この子あり。伊予に帰ってきた藤太郎を迎えた祖父はその堅い意思に感激し、学問を厳しく仕込んだ。そして、後に陽明学の祖と呼ばれる中江藤樹に育ったのである。本当の教育というのは覚悟がいるものだと思い知った。

あおい先生の「猿ヶ京片耳伝説」。国枝史郎原作。将左衛門の娘、松乃は斎藤家に輿入れが決まって婚礼の日を迎えたが、駕籠に乗って行ったはずの松乃が花嫁衣装で戻って来て、若党の一人である井口権之介に「私と一緒に逃げてください」と告げ、井口と松乃は行方不明になった。

舞台は変わって、猿ヶ京温泉の旅籠、桔梗屋。宿泊した武家の夫婦のうち、妻が「片耳が痛い」と寝込んでいる。医者に診せたがよく判らない。桔梗屋の主人、佐五右衛門が十七になる娘のおりんと談笑している。おりんは来春に布施屋の息子の進一のところに嫁入りすることが決まっている。二人は幼馴染だ。囲炉裏に座っている一人の客に茶を淹れてやると、「旅の薬屋」だという。

その客はおりんが良い娘だと言って、「世の中には悪い女がいる」と松乃の一件の噂話を始めた。松乃は嫁ぎ先の婿が醜男で我慢がならず、若党の美男子を連れて逃げた。ある旅籠に泊まったが、その男は松乃に一切手を出さなかった。だが、世間はそれを信じない。父親は「娘を傷ものにした」と怒り、松乃も「唆された」と言うものだから、本当は討ち首にするところ、男の片耳を削ぎ落した。松乃は翌年、良い家柄へ嫁入りしたという。その男は世の中が信じられずに大泥棒になった。その名を“三国峠の権”という。桔梗屋主人は三国峠の権の噂は知っていて、「確か、沼田の城下で召し捕られたはず」と言う。呼子の笛の音が鳴っている。

桔梗屋の風呂は当時の旅籠がそうであったように、“入れ込み風呂”と言って混浴だった。泊まり客がいなくなったのを見計らって、おりんは湯船に浸かる。「それにしても酷い話を聞いた」と思った。背後に男の気配を感じる。おりんの着物を漁っている。男は頬冠りをしている。おりんが屈託のない口調で「それは私の着物よ。そんなことしないで、こっちの湯船にお入りなさいよ」と言う。男は頬冠りのまま湯船へ。「頬冠りは変だ、お取りなさいよ」とおりんが言うと、男は「怖がるといけないと思って」。おりんはこの男はきっと恥ずかしがり屋のいい人なんだと思った。そして、近々、幼馴染の進一さんと夫婦になることなどを話した。

ピーッ。呼子の笛が鳴る。「取り囲みやがったな」と男が言う。「恐ろしい男を捕まえにきたんですよ。人を殺したり、火をつけたり…」「それじゃあ、三国峠の権みたい。でも、可哀想な人なんですってね。でも、捕まったと聞いたわ」「昨晩、牢から逃げ出し、この土地に逃げ込んで、桔梗屋に入ったそうだ」。そう言って、男は「俺がその三国峠の権だ」と言うが、おりんは信じない。「あなたはとってもいい人。きっと三国峠の権のふりをしている。旅の役者ね」。

男は頬冠りを取り、「片耳なんだよ」。やはり、男は三国峠の権だったのだ。やがて、権はおりんの女着物を着て変装すると、囲炉裏で薬屋だと言っていた男と合流し、二人で風呂場を出ていく。

おりんは「あの人たちを逃がしてあげたい」と思った。男の脱いだ着物を着て、父親のところへ行く。「あの人、いい人だった。助けてあげたい」「権に惚れちまったのかい?」「必ず戻って来る。そして、進一さんのお嫁さんになる。約束するから、許してください。お願いします」。そう言って、おりんは飛び出し、竹法螺を吹く。桔梗屋を取り囲んでいた捕手たちは「権が捕まった」合図だと思い込み、去って行った。

薬屋と権は「次は越後へ逃げよう」と向かおうとしたとき、背後から「待ってください」という女の声がする。美しい武家の娘…「私は松乃です」。三国峠の権に言う。「ここで会ったのは運命(さだめ)。ずっと謝りたかったんです。申し訳ありませんでした」。権が言う。「それで俺の耳は戻ってくるのか?お前は以前の我儘そのままだ。何もわかっていない」。すると、松乃は「私の片耳を切ってください。あなたと同じ姿で生きていきます」。薬屋は「切ってやればいいじゃないですか。それで恨みを晴らしてやれば」と言うと、権は「もういい。お前さんのことなんか、何も知らない。これからもそのままの姿で生きていけばいい」。

そう言って、三国峠の権は薬屋と共に走り去っていった。松乃の耳の痛みは消え、その場にヘナヘナと倒れ込んだ。権はその後、越後へ落ち延び、改心したという…。悲しく切ない物語だった。