NHK特集 復活 北の湖~苦闘の一年~

NHK―BSプレミアム4Kで「NHK特集 復活 北の湖~苦闘の一年~」を観ました。

昭和59年に放送された番組のアーカイブである。横綱・北の湖は昭和57年初場所に23回目の優勝を果たして以来、2年余り優勝から遠ざかっていた。史上最年少の21歳で横綱に昇進し、37場所連続で二桁勝利を記録し、常に優勝争いに絡んでいた北の湖だが、相次ぐ怪我に泣かされていたとはいえ、「優勝は横綱の宿命」が口癖だった彼にとっては屈辱だったろう。

その北の湖が怪我を克服し、14場所ぶりに24回目の優勝を、それも15戦全勝で飾ったときのドキュメンタリーだ。憎らしいほど強いと言われた横綱の優しい人間的な素顔が随所に映像で捉えられているところに、このNHK特集の歴史的価値があるように思った。

昭和58年は春・夏・名古屋と3場所連続で全休している。再起を期して出場した秋場所、3連勝して迎えた4日目の相手は大ノ国だった。寄り切りで破ったが、土俵際で左足脹脛の肉離れを起こし、5場所連続の休場となってしまった。代々木のスポーツ診療所で高沢晴夫医師の治療を受け、九州場所に臨むことができたが、結果は11勝4敗。北の湖としては満足のいく成績を残せなかった。

その昭和58年の北の湖をカメラはひたすら追い続けている。全休を決めた夏場所を部屋でテレビ観戦している様子には内に秘めた悔しさが滲み出ているように感じた。全盛期でも膝を痛めたこともあった。だが、膝をかばう相撲でカバーして土俵に上がり続け、腰も痛めてしまった。負けず嫌いゆえ、診察を受けるのを拒んだ。我慢に我慢を重ねた結果、次から次へと悪いところが広がってしまったのだ。

5月16日に30歳の誕生日を迎え、三保ヶ関親方のおかみさんがご馳走を振舞い、激励する場面で笑みを浮かべるところや、とみ子夫人と息子と一緒に風船と戯れて遊んでいる団らん風景で「横綱の姿を息子の目に焼き付けたい」と話すところ、さらに夏巡業で立ち寄った故郷の北海道壮瞥町で父の勇三さんや母のテルコさん、小学校時代の同級生との激励会があって普段は照れ屋な北の湖がマイクを持って「銀座の恋の物語」をデュエットする場面など、“人間・小畑敏満”が出ていて、とても良い。

そして迎えた59年初場所。7日目までに2敗して迎えた8日目、新関脇の大ノ国に敗れて3敗目を喫すると、報道陣は三保ヶ関部屋に押し寄せた。親方はきっぱりと「本人が取るという限り、土俵に上がらせます」。とみ子夫人も「弱気になるとは思いますが、耐えているんです」と夫を気遣った。この場所は8勝7敗。北の湖は「8勝では勝ち越しではない。横綱は二桁勝って初めて勝ち越し」と言っているだけあって、本人にとっても屈辱の成績だったろう。横綱審議委員会も「引き際を綺麗にしてほしい」というコメントを発表したが、北の湖は「相撲を取るのは自分自身。気にしない」と強気の発言をしているところに、意地を見た。

春場所は10勝5敗。そして迎えた夏場所。場所前の優勝候補の名前に挙がらなかったが、初日から連勝街道を走る。13日目を前に横綱・千代の富士、隆の里が2敗で追う展開となった。結び前の一番で北の湖は千代の富士を堂々と寄り切る。そして、結びの一番で弟弟子の北天祐が隆の里を下し、北の湖の優勝が決まった。北の湖いわく「(北天祐が)絶対頑張ってくれると思っていた」。24回の優勝で、13日目に決めたのは初めてのことだった。

この場所、人気力士の高見山が引退を発表した。「20年間土俵を勤めたことが何よりの誇りだ」と記者会見で述べた高見山は思い出の一番として、昭和53年秋場所で北の湖に勝った相撲を挙げている。当時としては最多だった金星12個のうち、北の湖から奪った金星はこの一個のみだった。

北の湖は14日目には若嶋津、千秋楽は隆の里を破り、優勝を全勝にして花を添えた。三保ヶ関親方は「ずっと悔し涙を陰で流していたと思う。でも、男になるまではやらなきゃいけないと言っていた。身内の葬式でも泣いたことはないのに、北の湖が優勝すると泣けてくる」と、その奮闘を讃えた。

一度は地獄を見た北の湖の見事な復活優勝は今でも僕の目に焼き付いている。結局この優勝が最後の優勝となった。国技館が蔵前から両国に移った昭和60年初場所、北の湖はその土俵を二日間勤めて引退した。引退後も相撲協会の多難な時代に理事長を勤めていたが、62歳で早逝してしまったことが惜しまれる。ありがとう、北の湖。