一龍斎貞鏡 真打昇進祝いの会「二度目の清書」

「一龍斎貞鏡 真打昇進祝いの会」に行きました。講談協会の若手女流真打が祝う披露目だ。

「大久保彦左衛門 筍騒動」宝井小琴/「黒田節の由来」田辺銀冶/「横浜のヘボン博士」宝井琴鶴/「東玉と伯圓」一龍斎貞寿/中入り/口上/「赤穂義士伝 二度目の清書」一龍斎貞鏡

貞寿、琴鶴、銀冶、貞鏡。一緒に前座修業をした同士だそうだ。指導係になった琴鶴先生(当時琴柑)いわく、入門した頃の貞鏡ちゃんは高座に上がるのも怖いと言って私が背中を叩いたくらいだった。それが今ではこんなにドスの利いた、肝の据わった講談師になるとは、と振り返っていたのは印象的だった。

また、同じ一龍斎の先輩である貞寿先生は貞鏡ちゃんは父が八代目貞山、祖父が七代目貞山という血統ゆえに、諸先輩方の見る目が厳しく、「貞山君はこんなことも教えていないのか」、良い仕事が入ると「贔屓されたんだね」と嫌味を言われることもあり、苦労をしたと打ち明けた。そういうプレッシャーを真正面から受け止めて、それをプラスに変えていった貞鏡ちゃんは素晴らしいと絶賛した。

貞鏡先生の「二度目の清書」。自分の家族を欺いてまでも仇討本懐をぬかりなく成就させたいと考えた大石内蔵助の苦しい胸中が痛いほど伝わってくる。高円花魁を身請けし、家に住まわせ、大石の酒の相手や寝間の伽をさせ、妻のお石には家事一切を任せるという…。「高円を姉と思い、汚れた襦袢を洗ってやってくれ」という言葉はどれほどお石の心を傷つけたことか。

お石が「私は石束源吾兵衛という武士の娘」というプライド以前に、内蔵助に「酒に酔っての上か、それとも正気か」と尋ねる気持ちは当然である。それが正気だと判ると、但馬豊岡の実家に帰ると覚悟を決め、離縁を申し出る。息子の吉千代、大三郎を“狐女郎”に養育させることなど我慢ならない。それに内蔵助の実母ことも同意しての暇乞い。十八歳で嫁いで以来、四十歳になるまで尽くしてきた夫を見限る悔しさたるものいかばかりか。これも内蔵助にとっては「敵を欺くための計略」。三下り半を渡した内蔵助の心中の苦しさもお石同様、いやそれ以上だったに違いない。

内蔵助の大きな力となったのはお石の父である義父の石束源吾兵衛の理解だろう。今は長男に家督を継ぎ、石束廬山という名で隠居している。お石たちが豊岡に身を寄せる際に、内蔵助の命を受けた寺坂吉右衛門が書状とともに、口添えした言葉、「心中よしなにご賢察を」。これに対し廬山は「委細承知仕った」。廬山は内蔵助の仇討本懐に賭ける強い思いを察したのである。長男の源吾兵衛は内蔵助に怒り心頭だったが、廬山は「深い考えがあってのことだろう」と言って、これを鎮めて娘お石や孫二人を心安らかに受け入れたのは内蔵助にとって何よりの援護射撃だったに違いない。

そして、元禄十五年極月十四日、赤穂浪士四十七人が本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事仇討本懐を遂げたことが寺坂吉右衛門によって報告された。廬山はじめ、お石や息子の吉千代、大三郎、母のこともその報せを聞いて狂喜乱舞したことは言うまでもない。とりわけ、お石は自分の夫とともに長男の主税も仇討に加わっていたことを考えると、その喜びは一入だったに違いない。内蔵助は部下四十六人を率いて、敵を欺くことに心を砕き、陰では着々と討ち入りの準備を進めていたのか。表向き離縁した形になっている夫の苦労を労ったに違いない。

一龍斎のお家芸である赤穂義士伝の中でも、とりわけ大切な読み物である「二度目の清書」を思い入れたっぷりに力強く読んだ貞鏡先生を頼もしく思った。