【プロフェッショナル アニメーション映画監督・細田守】(2)希望を灯す、魂の映画

NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 アニメーション映画監督・細田守」を観ました。(2015年8月3日放送)

きのうのつづき

細田はスタジオジブリの就職試験に落ちたときに、宮崎駿から渡された励ましの文章を今でも大切に保管している。

1967年、細田は富山県の立山連峰の麓の小さな町に生まれた。父は仕事人間で、母が大切に育ててくれた。細田にはあるコンプレックスがあった。

どもりというかね、今もあるんだけど、ちょっと言語障害があって、小学校低学年のときから特殊学級に行っていたんですよ。なんか言いたいことが、なかなか言いづらかったりとか、というような子どもだったのね。

クラスにうまく溶け込めなかった細田さんに、母は一本の映画を見せてくれた。宮崎駿監督の「ルパン三世 カリオストロの城」。未知の世界にいざなってくれる映画に心が踊った。将来の夢が決まった。

卒業文集にはこうある。

ぼくはアニメーションのディレクターになりたいと思います。宮崎駿さんやりんたろうさんの演出方法や画面構成を見て、そう思ったのです。

大学卒業後、スタジオジブリの就職試験には不合格。それでも、夢をあきらめきれず、別のアニメーションの制作会社に入社した。

9年間の下積みを経て、監督をした短編映画が話題を呼び、一躍期待の新星になった。

そんな中、あのスタジオジブリから思いがけない連絡が入る。「映画の企画がある。やってみないか」。日本最高峰のスタジオで大作を作るチャンスを得た。

やったー!みたいな。ついに長編だー!みたいな。絶対作れると思っていたんだよね。

これまで培ったやり方でやり遂げてみせる。絵コンテに着手した。だが、与えられた原作「ハウルの動く城」は奇想天外で、難解な物語。どう構成したらいいか、糸口がつかめない。けれど、誰にも助けを求めなかった。

細田が振り返る。

「東映で学んだぞ」みたいな、変な自負というか、安いプライドみたいなものがあって。宮崎さん、高畑さんに相談したりとか、一種教えを請うってことも、今から思えばちょっとぐらいしても良かったんじゃないかと思うんだけれど。なんか、こう、一方でここで「ああだ、こうだ」っていう風に言われちゃうのも嫌だなというのもあって。

細田は自らの殻に閉じこもり、独り孤立していた。8か月後、コンテはついに行き詰った。担当のプロデューサーからこう告げられた。「細田君、これ、もう無理だね」。

4月21日です。2002年の。覚えてますね。「もう信用されるのは無理だな、俺は」っていう。監督としては、こういう風になった以上は。

失意の途中降板。だが、本当の試練はそれからだった。元の会社で映画の企画を出し続けるも、一本たりとも通らない。「細田は終わった」と業界で囁かれた。

苦境の細田をさらなる試練が襲う。夢を後押ししてくれた大切な母が病に倒れた。故郷に帰って母の介護をするか。映画を作るチャンスを追い求めるか。母と夢の間で板挟みになった。

細田は夢を諦めきれなかった。母への思いを胸にしまい、黙々とテレビの仕事を手がけながら、通ることのない企画を書き続けた。

つづく