田辺いちか「名刀捨丸」持って生まれた人間の心掛けと運命の関係に思いを馳せる

らくごカフェで「田辺いちかの会」を観ました。(2021・09・11)

いちかさんの「名刀捨丸」が素晴らしかった。いくつか感じ入ったところを挙げてみたい。

まず、生まれついての性分は大人になっても変わらないものなのか、ということである。木曽の美濃村の百姓の息子、兄の治太郎は子どもの頃から手癖が悪く、悪事ばかりしているので、16歳で勘当されてしまい、どこかへ行ってしまう。一方、弟の治三郎は親孝行で善人、心根の優しい好人物。江戸の呉服店に奉公するが、真面目に働き、10年で50両近くを貯める。一所懸命な男だ。

両親は生活が苦しく、田地田畑を売りはたいてしまったので、この貯金で買い戻してあげようと、美濃村に戻りたいと主人に願う。主人は喜んで金の積み増しをして50両にしてやり、旅の用心にと道中差しを渡す。同じ環境に育っても、心掛け一つで、全く違う人物に育ってしまうものなんだなあと思う。

次に感じたのは、運命というのは分からないものだなあ、ということだ。故郷の美濃村に向かう木曽路の山中で道に迷った治三郎は灯のついた人家に厄介になる。そこが名前を捨丸と変えた治太郎の住み家だったとは。女房は優しく、「亭主は山賊だから」と滞在を断るが、可哀想な治三郎を見て、匿ってあげる。

しかし、蛇の道は蛇。悪事を重ねた治太郎には、江戸方面から歩いて我が家に入った男をしっかりと見ていた。どこに隠していると、女房を蹴ったり殴ったり。見かねた治三郎が自ら飛び出してきて、暴力を止める。

金目のものはしっかり奪うのが悪党の仕事。捨丸こと治太郎は、治三郎が持っていた50両だけでなく、道中差しも奪う。代わりに、錆びついた刀を治三郎に渡す。治太郎にとっては、どうでもいい刀だったのだろう。

またまた、運命とは分からないものだなあと思うのは、その刀の行方である。命からがら江戸へ逃げ帰った治三郎は、主人に顛末を話す。と、主人はあの錆びついた刀に目をやる。主人は目利きができるのだ。これは、名刀ではないか?錆びをを落としてみると、これはまさに名刀。上杉の殿様が200両でお買い上げになった。正直者の治三郎には、何かがついている。

善人はあくまで善人だ。治三郎はその200両は自分だけのものではない、くれた山賊捨丸のものでもあるのだと考える。そして、再び木曽路を急ぎ、捨丸夫婦の元に行く。半分の100両を渡すから、堅気になりなさいと諭す。さすがの捨丸も感じ入ったか、頷く。そして生い立ちを話しているうちに、二人は血を分けた兄弟であることが判明する。おお、ついに兄も真面目な生活をしてくれるか、と思ったが、これまで重ねた悪事への懺悔からか、治太郎は自害してしまう。おぉ。

治太郎女房は尼になり、治三郎と一緒に美濃村に行き、親孝行をしたという。人間の心掛けと運命は、どこかで神様が見ていて良い方向に導いてくれるのかもしれない。そんな思いに駆られた高座だった。