【アナザーストーリーズ】2003年の野村克也~名将を再生させたアマチュア野球~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 2003年の野村克也 名将を再生させたアマチュア野球」を観ました。

野村克也といえば、南海ホークス時代にホームラン王9回、打点王7回、戦後初の三冠王にも輝き、1973年には選手兼任監督として優勝に導くとともに、シーズンMVPを獲得した名選手。さらに、90年から98年までヤクルトスワローズの監督を勤め、リーグ優勝4回、日本一3回の座を掴んだ名将である。その野村の晩年の輝きを描いた優れたドキュメンタリーだ。

1999年から2001年、3年連続で阪神タイガースの監督としてリーグ最下位の屈辱を味わう。そして、妻の沙知代が脱税で逮捕され、監督を辞任。「何もする気力がなかった。闘志は沼に沈み、戦いの記憶さえ、地中深くに埋まってしまった」と当時を振り返っている。

そんな野村に社会人野球の球団、シダックスから監督就任の要請をされる。2002年、決断して就任を発表。練習場の調布の市営グラウンドに降り立った67歳の野村はヤクルト時代の苦虫を嚙み潰したような表情ではなく、極めて穏やかな顔をして選手と接した。「野球は野っ原でやるもんだ。野球ができれば幸せだ」と言っていたという。

翌年3月の東京スポニチ大会。チームは凡ミスで敗退した。野村は怒鳴った。「好きな野球で真剣になれないんだったら、やめてしまえ」。大学を中退して入団した19歳の野間口貴彦は「野村さんの求める野球をやろう」と、アウトコース低めに10球中8球は投げられるように練習した。24歳の武田勝は勝ちに対する貪欲と執念を学び、「遊びを覚えろ。野球も遊びも駆け引きだ」とアドバイスされた。

野村は1954年に南海にテスト生として入団した。貧乏だった母親のふみを支えようと、自らを月見草に喩え、「鈍才」である自分に何が出来るか、「考える野球」を蓄積した。そして、「ノムラの考え」というノートを作成する。マネージャーの梅沢直充は毎日、メモを渡され、ノートに加えた。

野球屋はユニフォームを着てグラウンドに立てることが一番の幸せなはずである。選手の育成に全力でぶつかること。これこそ生きがいであり、幸せなことである。

就任1年目の都市対抗野球。トヨタ自動車、NTT西日本、富士重工、ホンダ熊本と破っていき、決勝に進出した。相手は三菱ふそう川崎。3-0でリードして迎えた7回にノーアウト満塁のピンチが訪れる。投手は野間口。野村監督は続投を決断した。だが、4-5で逆転負けを喫し、優勝を逃した。

「俺の継投ミスで負けた。申し訳ない。野間口が疲れていたのはわかっていた。ここまで野間口で勝ってきたから、心中だと思って引っ張っちゃったんだよ」。野間口は“かけがえのない経験”をした、一番の思い出だし、監督にそれだけ信頼されていたことは光栄だと振り返る。野村はリベンジを目指したが、3年間で優勝を掴むことは出来なかった。

2004年、野間口は巨人に入団し、10年間活躍した。武田も05年に日本ハムに入団し、技巧派左腕として大成した。野村は「優勝で恩返しできず、申し訳ない」と別れの言葉を残し、05年に70歳で楽天イーグルスの監督に就任した。

野村は妻の沙知代を愛した。野村克也引く野球はゼロであるが、野村克也引く沙知代もまたゼロである。そう生前語っていた。沙知代はタレント活動をしたり、衆院選にも出馬したり、挙句には脱税事件を起こして野村の足を引っ張ったわけだが、それ以上の恩義を感じていたのだ。南海で選手兼任監督をしていたときにも、沙知代の言動が問題になったことがあり、「女をとるのか、野球をとるのか」と球団に迫られたときも、「女をとる」と断言している。

1980年に現役を引退したとき、沙知代は野村の講演の仕事を年間300本以上も取って来た。さかんに読書を勧め、教養と野球経験を生かした独自の「哲学」を確固たるものにしたのも、沙知代のお陰である。

脱税事件で第一線を退いた野村は、そのときに脳腫瘍が見つかり、手術をしている。だが、そのことを沙知代は世間には公表しなかった。そして、シダックスの監督就任も実は志田勤代表と沙知代の間で下地が出来ていたと思われるという。野村のとって欠かせないパートナーだったのだ。

野村が楽天の監督に就任する前年、楽天は38勝97敗1分でリーグ最下位だった。チームにいた山崎武司は96年に中日でホームラン王を獲った実績があったが、すでに38歳だった。野村は「生意気で態度が悪い」と無視をした。だが、最終的に「俺はお前と一緒や。復活するには野球を愛することだ」と助言した。

野村再生工場の鉄則。①相手を完全に把握する②眼のつけどころ③育つと判断すれば信頼する④長所をのばすは短所を鍛えろ。山崎は天性の長打力がある。だから、いくら三振してもいいから、「考えろ」と教えた。06年は19本塁打67打点だったが、07年に43本塁打108打点で二冠王に輝いた。39歳での復活である。

06年にドラフト1位で入団した田中将大は逆にとことん褒めた。後にヤクルトの監督になる池山隆寛をコーチに招聘し、「準備野球」のための徹底的なデータ収集に当たらせた。それが土台となって、結果を出した。

06年6位、07年4位、08年5位。09年に2位となり、クライマックスシリーズ進出。田中、山崎が活躍し、ファーストステージを突破。ファイナルステージで日本ハムと対戦した。だが、1勝しか出来ず、日本シリーズ制覇の夢は破れた。

だが、ヤクルト時代の教え子である日本ハムの稲葉篤紀が山崎に呼びかけ、野村監督を胴上げした。負けたチームの監督、それも両チーム入り乱れての胴上げなど、異例のことだった。シダックス時代の教え子である武田勝は「まだまだ続けてほしい」と胴上げに加わらなかった。

2019年7月11日。スワローズ・ドリームゲーム。車椅子生活の野村が選手たちに支えられ、バッターボックスに立ち、フルスイングをした。野村を慕い、愛した男たちの演出が涙を誘う。この半年後に野村は天に召された。

人を残すを上とする。野村克也の選手育成論は、野球にとどまらず、会社組織の人材育成にもそのまま当てはまるものではないだろうか。