【アナザーストーリーズ】YMO~時代を超えた革命児たち~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ YMO~時代を超えた革命児たち~」を観ました。
細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のよって1978年2月19日にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が結成された。この時代、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、働く日本人は「エコノミックアニマル」と称された。彼らが最新テクノロジーのシンセサイザーを駆使して生み出したテクノポップは、まず世界を轟かせ、逆輸入という形で日本で大ヒットしたことが面白い。
細野は結成の目的をこう書いている。港というのは出たり入ったりする場所でなければいけないのに、入って来る方が圧倒的です。これは音楽の世界の事を云っているのですが、これを東京港から輸出しなければ加工国日本の名がすたるのです。つまり、「日本発の新しい音楽で世界を席捲する」ということだった。
シンセサイザーを操作したのは、第一人者の富田勲の弟子で、「4人目のYMO」と呼ばれる松武秀樹だった。3人の頭の中にあるイメージを音に仕上げていく。「下半身モヤモヤ」のリズム、「みぞおちワクワク」のメロディー、「頭クラクラ」のコンセプトを三本柱にした。とりわけリズムは重要で、同じ数値を入力し、一定のリズムを作り、その数値をずらして、独特のノリを作る。数値を変えて多様なリズムを作り、複雑に重ねて、気持ちの良いノリを作っていったのだ。
1978年、ファーストアルバムをリリースして国内デビュー。しかし、ほとんど売れなかった。ラジオ局に持ち込んでも、どのジャンルに入る音楽なのか区別がつかず、相手にされなかった。プロデューサーの川添象郎はフュージョンのフェスティバルに参加させ、アメリカのプロデューサーのトミー・リピューマに聴かせる。すると、これが好評で、アメリカでのアルバム発売が決まり、ライブ出演も決まった。
アメリカで活動するにあたっては、「日本人のアイデンティティを打ち出そう」ということになり、高橋が中国の人民服にヒントを得た赤の制服をデザインして着た。さらに北京中央楽団を模して、もみあげをカットするテクノカットにした。松武もシンセサイザー、通称タンスをステージに上げて観客の前で操作した。79年8月のロサンゼルスで8千人を前にしたライブでは1曲目からスタンディングオベーション。「斬新だ」という声があちこちからあがった。この様子の映像が日本のNHKの7時のニュースで流れると、日本でもブレイクし、テクノブームが巻き起こった。
YMOは日本のカルチャーの発信源になった。音楽にとどまらず、ファッション、ライフスタイルに及んだ。79年に出した2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は井上陽水「氷の世界」に続く2枚目のミリオンセラーとなる。ちょうど、その三か月前にウォークマンが発売され、原宿で竹の子族が流行し、テクノブームは社会現象になった。
そんな中、小林克也、桑原茂一、伊武雅刀の3人によるコメディーユニット、スネークマンショーとYMOが武道館で共演することになった。YMOの3人は登場すると、いきなりフォークソングを歌い出した。坂本龍一は女装してピアノを弾いた。だが、こうした洒落は観客には通じなかった。坂本は「絵に描いたような冗談をやっても、それが通じなかった。みんな、真剣になっちゃって」、細野は「あれは皆が混乱したということだけでも、大成功だと僕は思っている」と振り返っている。
80年に三枚目のアルバム「パブリック・プレッシャー(公的抑圧)」が発売され、人気はさらに沸騰したが、メンバーたちは違和感を感じ、困惑していた。レコード会社の「ライブアルバムを」という求めには応じなかった。「作り上げたものをどんどん破壊して、新しいものを作っていく」姿勢を貫いた。
4枚目のアルバム「増殖(マルチプライズ)」では、スネークマンショーとのコラボレーションを実現。日本人や自分たちを皮肉るだけでなく、評論家も揶揄する内容にした。オリコン初登場、1位。独特のユーモアで、カッコイイだけではないYMOを打ち出す。81年に「BGM」と「テクノデリック」をリリースすると、83年にはYMOは散開を宣言し、活動を休止した。
20曲以上のミリオンセラーを持つ小室哲哉はYMOから大きな影響を受けている。YMOの海外ツアーの映像を見て、「月面着陸の衛星中継」を見ているような衝撃を受けたという。84年にTM NET WORKを結成してデビュー。しかし、最初の3年間は売れず、YMOを繰り返し聴き、模索する日々だった。卓越したメロディーラインと音色を研究し、秘密はピコピコと呼ばれるシークエンスにあると分析。これを使ってダンスミュージックを作ろうと考え、ヒットに導いた。
漫才のナイツの塙孝之は「ライディーンのような漫才」を作ろうと、一定のリズムにツッコミとボケを入れ、中毒性を生み出す。彼は「ヤホー漫才オーケストラ」と名付けているのが可笑しかった。
新しい音楽を生み出すことに挑み、社会にメッセージを発し続け、音楽だけでなく日本人の文化に革命を起こしたYMOのすごさを思った。


