【熱談プレイバック】世紀の大工事 黒四ダム建設秘話

NHK総合で「熱談プレイバック 世紀の大工事 黒四ダム建設秘話」を観ました。講談師・神田春陽先生の話芸と貴重なアーカイブ映像のコラボレーション、今回は黒部第四ダム建設にまつわるストーリーだ。

日本三大渓谷の一つ、黒部峡谷に堰堤の高さ186メートルを誇る巨大ダムを建設にはまさに生きるか、死ぬかの過酷なドラマがあった。昭和30年、関西圏は深刻な電力不足に悩まされていた。工場は週2日の休電日を余儀なくされており、この危機を脱するために関西電力の太田垣士郎社長は黒部峡谷にダムを作り、水力発電によって大阪市の1/2の電力を賄おうという決断をする。だが、黒部は大木が生い茂り、断崖絶壁の秘境であり、その危険性から「黒部にケガはない」と言われるほどだった。

大手建設会社5社、工期7年の計画が立てられ、調査隊が道なき道を登るが、「工事どころじゃない」と誰もが思った。まずは機材を運ぶ5.4キロのトンネルを掘ることになり、その任務は熊谷組が担い、当時38歳の笹島信義が現場監督、いわゆる親方を任せられる。笹島は昭和31年の佐久間ダム建設でトンネル掘削スピード日本一を誇った男だ。黒部川下流の出身である笹島は「黒部の水で育った俺ならきっとできる」と自負した。トンネルは昭和31年8月に始まり、工期は1年とされた。

14台の削岩機を持ち込み、ダイナマイトを仕込んで岩を爆破し、それをトロッコで運ぶ。1日2交代、24時間体制だ。笹島は作業員たちに酒を飲みながら、自分がいかに強運の持ち主かを語った。中国出征で銃弾が首を貫通して死にかけたが、命拾いをした武勇伝。「この工事は絶対うまくいくぞ」と鼓舞した。

8か月で1/3を掘り進んだ。ところが、岩の断面から水が出始めた。山が危険信号を出している。笹島は笛を鳴らし、作業員を退避させる。これまでもダイナマイトで砕けた岩の下敷きになる犠牲者が出ていた。これ以上は犠牲者を出せない。落盤を防ぐ支保工が軋み、ミシミシと音を立てた。「山が崩れるぞ!」。大量の水が噴き出し、濁流が作業員たちを10メートルも吹き飛ばした。

破砕帯に遭遇していたのだ。地殻変動で岩が細かく崩れていたところに長年かけて地下水が沁み込み、その水がトンネル内に噴き出した。この破砕帯はどこまで続いているのか。どれくらいの水が出るのか。予測がつかない。「水を抜こう」。崩落を防ぐために木材でトンネルを補強した。そして、水を抜く穴を作った。摂氏4度の雪解け水を浴びながら作業を続けた。それでも土砂が噴き出してくる。笹島は笛を鳴らし、「退避だ!」。ちっとも前に進まない。

止まることのない水。士気が下がる。追い詰められる。笹島は後にこう振り返った。恐ろしいを通り越して、一瞬人間が凍りついたような錯覚になる。体は痩せ、目は血走り、頬はこけ、頭の毛は抜ける。

学者や研究者が連日、対策会議を開く。別のルートで掘り直すか、いや、それも破砕帯にぶつからない保証はない。「トンネルの神様」と呼ばれる熊谷組重役の牧田甚一は笹島に言った。「破砕帯突破は神様ならできる」。それは人事を尽くして天命を待つということだと笹島は思った。ルート変更を勧める首脳陣に対し、笹島は「冬になれば水は減る。そして、掘れる」と答え、根拠を問われると、「勘ですね」と言った。井戸の水が冬になると減った経験からだ。科学的根拠はない。破砕帯との格闘は4か月続いた。

太田垣社長は自分の目で確認したいと現場に赴く。滝のように噴き出す水でずぶ濡れの作業員に訊いた。「このままいけるかね」。「まあ、なんとかなるでしょう」と答えた作業員は笹島だった。2日後、太田垣は「ルート変更なし」を決断した。太田垣は「あの男はいい顔をしていた。あの男ならきっとやってくれるような気がする」。

昭和32年8月。トンネルの反対側から間組が「迎え削り」の掘削作業を開始する。笹島の現場には「チチキトク」とか「コドモオオケガニユウインス」といった電報が多いときで1日に30通も届いた。マスコミが「黒四ダム工事休止」「関西電力経営危機」といった報道をし、作業員の家族が心配して呼び戻しのためにこうした電報を打ったのだった。笹島は引き止めることができない。「俺は親方失格だ。足を洗って百姓でもしようか」と思ったという。1000人いた作業員は500人にまで減った。

もはやこれまでか。そう思ったとき、何台ものトラックがやってくるエンジンの音が聞こえた。現場を去った作業員500人が家族を説得して戻ってきたのだ。「親方の顔はつぶせない」と口々に言ってくれた。現場は活気を取り戻した。

牧田は笹島に「賭けをしよう」と言ってきた。破砕帯を突破する日付を決め、それよりも早く突破したら笹島の勝ち、それを過ぎたら笹島の負け。賞は下に厚く、罰は上に重く。牧田の考えだった。笹島は12月12日を目標に定めた。

やがて厳しい冬を迎えた。マイナス20度。だが、これが味方した。地中の水が凍りつき、水がピタリと止まったのだ。地盤も固くなった。「冬になれば削ることができる」という笹島の勘は当たったのだ。作業効率は一気に上昇し、格闘から7か月で破砕帯を突破。牧田との賭けより10日早い12月2日だった。82メートルを掘り進んだ。そして、2か月後。「あの音が聞こえるか」と笹島が言う。岩盤に耳を付けると、岩の向こうに音がする。迎え削りの間組の作業の音だ。「もうすぐ、貫通だ!」。ダイナマイトを仕込み、固唾を飲んで見守る。

昭和33年2月25日。最後の壁は取り除かれ、黒部の谷から冷たい風が吹き込んできた。感極まる笹島。「皆、よくやった!」。溢れ出す涙。堅い握手。「やっと終わった」。1年7カ月、共に闘った喜びとともに、犠牲者23人の冥福を祈って、笹島は美酒を飲み干した。

このトンネルは黒四ダム建設工事の輸送路として活躍し、ダムは昭和38年6月に完成した。7年の工期をしっかりと守ることができたのだ。笹島はその後、六甲トンネル、青函トンネル、関越トンネルを手掛け、「日本一のトンネル屋」と称された。笹島はこう言い残している。「人間というのは、怒鳴ってもダメ、甘やかしてもダメ、惚れさせることです」。素敵な人間ドラマであった。