【新プロジェクトX】カーリング 極寒の町に熱狂を~じっちゃんが夢をくれた~

NHK総合で「新プロジェクトX カーリング 極寒の町に熱狂を~じっちゃんが夢をくれた~」を観ました。

北海道の常呂町が「カーリングの町」となったのは、酒屋を営む一人の破天荒な男の行動力だったと知った。小栗祐治。1980年に札幌でカーリングという今まで聞いたことのないスポーツの講習会が開かれたときに参加したのがきっかけで、この町の人たちにカーリングの魅力を伝えたいと情熱をもって取り組んだ。

深夜、真冬の駐車場で水を撒き、カーリングのリンクを作る。鉄工所の知り合いに頼み、ガスボンベや墓石を加工してストーンを作ってもらう。ママさんバレーボールの練習に飛び込み、ラジカセでカーリングの迫力の音を聞かせて勧誘する。ついには、「真剣勝負の大会を開こう」とNHKに直談判に行き、NHK杯カーリング選手権を開催する。

カーリングの本場であるカナダの新聞が小栗の活動を特集したのが縁で、カナダの視察団を送り、町ぐるみで老若男女がカーリングを楽しむ姿を目の当たりにする。1992年、98年に開かれる長野オリンピックでカーリングが正式種目に採用されることが決まり、小栗の情熱はさらに高まる。開催国ということで、出場したが、実力の差は歴然としていた。だが、小栗は言った。「わが町はメダルを目指す」。

小栗は小学校の体育の授業を見学し、逸材発掘をさかんにする。やがて常呂町の授業にはカーリングが取り入れられた。小栗自らがフォームの指導を買って出た。そのときに出会ったのが、本橋麻里。当時小学校6年生だった。小学校2年の吉田知那美や鈴木夕湖らもスカウトした。「コマネチは14歳で金メダルを獲った。お前たちは15歳で表彰台だ!」。基本のフォームを徹底的に叩きこみ、世界と戦える技術を仕込んだ。大人の真剣に対し、子供たちも目を輝かした。

本橋はグングンと実力を上げ、15歳で世界ジュニア選手権に出場した。だが、常呂町の現実は厳しかった。高校を卒業すると、町を出て大学に進学するか、企業に就職するしか道はなかった。町に残る選択肢はなく、常呂町でカーリングを続けることは困難だった。2006年には常呂町の人口はピークの1/3に減り、平成の大合併で北見市と合併した。

本橋は同じ常呂町出身の小野寺歩や林弓枝らと「チーム青森」を結成。自治体や企業の支援を受けてカーリングを続けた。2006年トリノ、10年バンクーバーのオリンピックに出場したが、世界の壁は厚かった。特にスウェーデンの強さは圧倒的で、故郷や家族の支えで安定した実力を誇っている姿を見て、「叶わない」と思った。

本橋は考える。「あの恩師(小栗)がいたからこそ。環境は自分で作るものだ」。常呂町に戻る決断をする。故郷でともに競技をしていた鈴木夕湖、吉田夕梨花らを誘った。地元の医師、国分純に「なぜ戻ってきたのか」と問われ、この町に世界と戦えるトップチームを作りたい、後輩がこの町に残る選択肢を作りたいと答えた。国分は友人たちに声がけしてスポンサーとなり、本橋らのチーム「ロコ・ソラーレ」を応援した。常呂の太陽という意味だ。オリンピック出場経験のあるOB・OGが指導、コーチの小野寺亮二もその一人だ。

平昌オリンピックの前年の2017年。小栗危篤の報せがチームに届く。病院に選手たちが駆け付けたとき、小栗は天国に召されていた。メンバーは「必ずメダルを獲るからね」と目を瞑った小栗に誓った。

そして、平昌オリンピック。3位決定戦に進出する。相手は強豪イギリス。劇的な逆転で勝利を収め、銅メダルを獲得した。メンバーは大会終了後、すぐに常呂の町に向かった。「常呂の町の人たちと一緒に掴んだメダル」だったからだ。

番組最後に2013年の映像が流れた。常呂カーリングセンターのこけら落とし。車椅子の小栗が始投式をおこなった。小栗の言葉が今も心に残る。「人生にとって大切なのは、胸がキュンとなること。カーリングに出会ってからの私がそうだった」。

破天荒な一人の男の情熱が極寒の過疎の町の人々を、カーリングというスポーツで熱く燃えさせた。夢をくれた「じっちゃん」の素敵な物語だった。