【新プロジェクトX】魔法のラーメン 82億食の奇跡~カップめん・どん底からの逆転劇~

NHK総合で「新プロジェクトX 魔法のラーメン 82億食の奇跡~カップめん・どん底からの逆転劇~」を観ました。昭和46年に世界初のカップ麺として日清食品から発売されたカップヌードルの開発秘話だ。

昭和40年代、インスタントラーメンの草分けである日清食品は競合他社に押され、業績が悪化、製造ラインがしばしばストップするという経営危機にさらされた。ここで「一発逆転」を狙ったのが、創業者の安藤百福。3分で食べられる即席麺を作れないか。昭和45年7月に社長室に7人の若手社員を集めた。渡米した安藤は外国にはそもそも丼がなく、スープ皿のような底の浅い食器しかないことに気づく。容器に入ったラーメンを売れば、必ずヒットすると考えたのだ。

麺の開発担当の松本邦夫は、麺を油で揚げて乾燥させる実験を試みるが、外側は乾燥しても内側は生のまま。揚げる温度を上昇させると、今度は外側が焦げてしまう。麺を蒸して揚げて、湯で戻して試食する。これを1日20回繰り返した。ひたすらラーメンを食べ続け、自宅で妻の手料理を食べることができなくなってしまったという。

具の開発担当の大野一夫は、「3分で戻る乾燥食品」探しに奔走する。医薬品の抗生物質に使われる技術、フリーズドライ(凍結乾燥法)に行き着き、ニンジン、ホウレンソウ、ピーマンなどを試すがうまくいかない。安藤社長に「日本人は海老が好きだ。海老を使え」と言われ、北陸の甘エビや東南アジア産のエビなどを試すが、色と風味を保つことが難しかった。

松本は麺の量を1割減らし、隙間を作ることで、熱が内側も外側も均等に伝わる揚げ方ができることを発見する。大野も玉子、肉、ネギなどの具のフリーズドライに成功し、3分でできる試作品が出来た。この試作品を持って、問屋や商社に売り込みをかけるが、「これが食べ物か?」「日本には丼がある」「逆立ちしても売れない」と厄介払いされた。研究室には動揺が走る。

昭和46年5月、100人の社員に試作品を食べてもらったが、一様に「好んで食べる人はいない」という反応だった。安藤社長の「海老さえあれば」という思いに従って、大野は世界200種の海老を研究した。あるとき、大阪市内のホテルのレストランで出しているシュリンプカクテルを見て、閃く。インド洋で獲れるプーパランという海老だった。乾燥機にかけると、鮮やかな赤い海老が現れた。

1日1万食の生産を目指すことになったが、生産ラインの火力が足りない。ライン担当の柴崎俊明はプロパンガス10台ほ補充して、乗り切ることにした。そして、昭和46年9月。世界初のカップ麺が誕生した。

販売ルートの開拓が秋山晃久に託された。飛び込みしかない。お湯の入った水筒とカップヌードルを抱えて、競馬場、野球場などを廻った。夜、途方に暮れたとき、24時間体制で働いている消防署が目に入った。消防士に食べてもらうと、「うまい!」。以降、工事現場の作業員、夜勤の看護婦、長距離トラックの運転手…評判が広まった.

そして、大きな勝負に出る。昭和46年12月21日。歩行者天国の銀座。その頃、マクドナルドも進出して、マーケティングには格好のターゲットだった。2万食を街頭販売で売ろう。午後3時に売り出すと、瞬く間に行列ができ、僅か4時間で完売した。執念の開発が実を結び、研究チームは歓喜の声をあげた。

昭和47年2月のあさま山荘事件では、待機する警官隊の食事にカップヌードルが出され、寒さをしのぐ様子がテレビ中継に映し出され、爆発的なヒットとなった。日清食品に続けとばかり40数社が参入し、年間5000億円の一大産業となった。

1991年のソビエト連邦崩壊には日本から救援物資として136万食のカップ麵が送られた。99年のインドネシアのチモール紛争、台湾大地震、2000年の有珠山噴火…カップ麵は救援食糧として大活躍した。

現在では栄養バランスなどを考慮したカップ麵の研究開発が続けられ、「3分で食べられるラーメン」という安藤百福の発想と精神は今も息づいているという。カップヌードル開発に賭けた男たちの執念に頭が下がる思いがした。