兜町かるた亭 神田紅純「姨捨正宗」

兜町かるた亭に行きました。

「男の花道」東家三可子・沢村まみ/「姨捨正宗」神田紅純/中入り/「鯉淵要人」東家孝太郎・沢村まみ

三可子さんの「男の花道」。講談ではよく掛かるが、浪曲で聴いたのは初めて。浜乃一舟先生から教わったそうで、他には三門柳先生くらいしか演じる人はいないそうだ。眼科医が半井源太郎ではなく、土生玄碩。中村歌右衛門よりも貫禄のある人物造型で、歌右衛門の目をいとも簡単に治してしまう。歌右衛門が治療費を払えないので、「少し待ってくれ」と頼むと、玄碩が「わしの命にかかわるときに馳せ参じてくれればいい」と条件を出す。だいぶ講談とは両者の関係の描き方が違っていて、これが“男の友情”になるのか、若干違和感を持った。

そして、土方縫殿助も目を患い、玄碩が治す。その祝いの宴を柳橋の万八楼という料亭で開き、玄碩も招かれる。このときに縫殿助が酒乱で、玄碩に踊りを強要するというのは、恩人に対して極めて無礼であり、たとえ酔っていたとはいえ、話に無理があるような気がした。玄碩も玄碩で、「踊りは芸者の役目。命に懸けても踊らぬ」と突っぱねた上で、「手前の名代を呼び寄せよう」と安請け合いをして歌右衛門に手紙を書くという流れも、半井源太郎のような誠意が感じられず、「上から目線」を玄碩に感じてしまったのは僕だけだろうか。

それでも、歌右衛門は誠実な役者で、「伽羅先代萩」の舞台の途中だったが、満員札止めのお客様の前で仔細を打ち明け、万八楼に駆け付けて座敷で舞いを披露するところは、とても好感が持てる。また、歌右衛門が帰って来るまで、芝居小屋の客は全員「いつまでも待っているよ」と優しかったのはせめても救いのように感じた。

紅純さんの「姨捨正宗」。将軍秀忠の命令で全国の名刀を探し歩いていた本阿弥光悦が信州更科郡中原村の大尽、和田軍平の家に一晩厄介になったときのこと。名刀の話になって、軍平が得意満面で当家に三代伝わる「正宗」があると言って、うやうやしく差し出したその刀…光悦は一目で「天下の鈍刀」と判った。

だが、軍平は祖父がある侍から100両のカタに預かった「江戸で売れば千両はする」と言われた刀である、普段は蔵にしまっておいて、流行り病の治癒や狐や狸が憑いたときに加持祈祷に用いる以外、滅多なことでは人の目に触れないように扱っているという話を聞いて、その刀が鈍刀であるとは流石の光悦も言えなかったという気持ちも良くわかる。「正宗様」と呼んでいる軍平を床しいと感じたのだ。

だが、鑑定をつけてほしいと頼まれ困った。そこで筆を持ち、「信濃では姨捨山のあるものを 銘(姪)あればとて身をば頼みそ」と認めた。この話を江戸に帰って秀忠にしたところ、「これぞ天下泰平の印である」と喜ばれ、「その刀、取り寄せて見てみたい」。軍平が江戸へ出て、あの鈍刀を差し出す。秀忠はうなってから、笑った。そして、江戸にいる大名を呼び寄せ、諸大名がこの鈍刀を見て、うなって笑った。秀忠は直筆で「姨捨正宗」と名付け、白銀七枚を褒美に渡す。軍平はこれを誇りに思い、信州へ帰る。三代家光の代になって、「余も姨捨正宗を見たい」と言い、また軍平が鈍刀を持参し、白銀七枚を貰う。こうして、将軍が代わるたびに、信州から姨捨正宗が運ばれるという儀式がおこなわれ、八代吉宗まで続いたという…。「天下泰平」の象徴、姨捨正宗。良い読み物だ。

孝太郎さんの「鯉淵要人」。水戸家と井伊家の仲が悪かったことが背景にある。小名木川の御用船でよく衝突があったという。井伊家の舟がわざと水戸家の舟にぶつかり、喧嘩を売るのだ。水戸藩士・鯉淵要人が乗っていたときも、ぶつかってくる舟があったので、斬りかかろうとすると、これが井伊家の舟ではなく、内田家の舟だった。内田家の家来、山口辰之助は、鯉淵が「軽率だった」と詫びるため、これを許した。

ところが、鯉淵が後日聞いたところ、その件を山口は内田家家臣から咎められ、浪人になったことを知る。「申し訳ないことをした…」。山口が住んでいるという飯倉の裏長屋を訪ね、詫びをすると同時に、「武士道を立てるため」自分が貰っている年300石のうち、半分の150石を子息が成人するまで送らせてほしいと進言する。

だが、山口も武士。「恵みを受けることは恥だ」と主張。お互いに「刀にかけても」と意地の張り合いになってしまった。これを聞きつけた水戸藩家老が駆けつけ、諍いを収める。水戸藩主の徳川斉昭公が「これこそ真の武士だ」と褒め、山口は水戸藩に仕官することになる。そして、井伊直弼を水戸脱藩の侍たちが襲撃する、桜田門外の変の際のいわゆる水戸十八烈士に鯉淵要人も山口辰之助も名を連ねていたという…。武士の義理と人情の物語だね。