月例三三独演 柳家三三「百年目」
月例三三独演に行きました。「つる」(ネタ卸し)と「百年目」の二席。開口一番は柳家小太郎さんで「粗忽の釘」だった。
柳家三三師匠の「百年目」。この噺は人材育成論だなあとつくづく思った。番頭の治兵衛が「閻魔大王が苦虫を嚙み潰したよう」な顔をして、奉公人に厳しく小言を言って指導することによって優秀な人材が育ち、店の繁栄につながるか。それも大事だが、飴と鞭、ゆとりを持たせてあげて指導する方が伸び伸びと育つのではないか。旦那という言葉の由来から、栴檀が南縁草に露を下ろしているからこそ、南縁草は栴檀の肥やしになるという理屈に成程と思う。
番頭は店の仕事をしっかりやった上で、自分の甲斐性として芸者・幇間と花見遊びをしている。旦那が店の切り盛りは全て番頭に任せて、一度も見たことのない帳面を「このときばかりは一睡もできず検めたが、これっぱかりの穴も見つからなかった」。番頭の裁量で稼いだ金なら、どんどん遊んでくださいと旦那は言う。仕事のお付き合いで遊ぶときも、先方が50両使えばこちらは100両、先方が100両ならこちらは200両使いなさいと言う。そうでないと、商いの切っ先が鈍る。そんなことで潰れる身代なら、潰れてもいいとさえ言う。こういう大きな了見の旦那の許で働いているからこそ、こういう優秀な番頭が育ったのだろう。上司と部下の信頼関係というは、こうでなきゃいけない。
番頭は向島で芸者や幇間と派手に遊んでいる現場を旦那に目撃されて、もう旦那の信頼を失ったのではないか、暇を出されるのではないか、ビクビクと怯えていた。ところが、翌朝に旦那に呼ばれて言われたことは、その逆で“感謝”の言葉だった。さぞ、感激したことだろう。
その上で、後進の指導について優しく諭された。店の南縁草が萎れているように思う。もっと露を下ろしてあげておくれ。駄目な奉公人を見て歯痒いだろうが、一見“無駄”に見えるようなことでも、それがないと立ちいかないこともある。役に立たない奉公人でも、使い様によっては役に立つこともある。無駄を切り捨てるのではなく、その無駄に思える人材をどう使うか。それを考えるのが人を育てるということだと旦那は言った。素晴らしい。
さらに、こんなに店を立派に切り盛りしてくれる優秀な番頭さんにいつまでも甘えていたと謝罪した。「もう、この店にいるべき人ではない。もっと早くに店を持たせなきゃいけなかった」と言って、来年3月に暖簾分けすることを約束した。
旦那の回想が涙を誘う。今ではこれだけ優秀な番頭さんだが、11歳のときに葛西の宗兵衛さんに連れられてきたときは、寝小便ばかりして、二桁の算盤が半年かかっても覚えられず、使い物にならないと周囲の人は言った。だが、「あの子だって、どこか見どころがある」と使い続けると、小僧の時代は同い年の小僧に遅れをとっていたが、手代になると徐々に頭角を現し、やがて図抜けて出来る番頭に出世した。これは周りが辛抱して育ててくれたお陰だよ、後は恥ずかしくない後釜を育てておくれ。そのためにも、露を下ろしておくれ。
現代の会社組織に同じことが言えるのではないか。露も下ろさずに肥やしばかりを求める経営陣が多くないか。優秀な人材を育てることは、その人物の見どころを見つけること。世の中のデジタル化が進み、益々労働者の時間やお金の管理システムが厳しくなっているように思える。こういう時代だからこそ、逆にゆとりをもった労務管理が求められるのではないかと思った。