桂二葉独演会、そして林家つる子「紺屋高尾 高尾編」
「桂二葉独演会~一富士二葉三茄子~」に行きました。一昨年にNHK新人落語大賞を受賞して、俄然脚光を浴び、その後目覚ましい活躍をしている二葉さん。恥ずかしながら、今回初めて生の高座を拝見したが、やんちゃだけど澄み切った目をしている少年(女性に対して少年というのは失礼かもしれないが)のようにキラキラと輝いている高座にとても惹かれた。
一席目の「雑排」はオリジナリティ満載で、ある意味、東京の噺家では聴いたことのないような新作っぽい作りをしていて感心したのだが、演じ終わった後に、これは桂あやめ師匠の創作だと言って、合点がいった。でも、あやめ師匠の創作を自分のモノにしている器量は大したもので、ただの猿マネになっていないのは、実力があるからなのだと思う。
二席目は「蝦蟇の油」。まず、油売りの口上が見事である。綺麗な上方言葉で流暢に言い立て、拍手が起こった。実に気持ちが良い。そして、完全に酔っ払って、ヘベレケになった油売りの匙加減も素晴らしい。ベロベロで何を言っているかわからないというわけではなく、ちゃんと呂律が回らないながらも、意味不明ではなく、理屈に合わない口上になっていることで笑わせている。センスだと思う。
中入りを挟んで三席目は「池田の猪買い」。上方落語の喜六は江戸落語における与太郎だと言われるが、僕はちょっと違うと思う。与太郎はバカだけど、喜六はアホ。同じじゃないか、と言われそうだが、頭の回転の速さの違いがあるのではないか。速いのが喜六で、遅いのが与太郎。そういう意味で、二葉さんは喜六がとってもよく出来ている。
それでもって、この喜六が可愛い。人間的な可愛らしさをよく表現している。冷え性を治すために猪肉を食べるといいと旦那に教わる件、池田の猪撃ちの六太夫さんの家までの道のりをあちこち尋ねて行き着く件、そして六太夫さんと一緒に“新しい”猪を撃ちに行く件、全てにおいて喜六の言動が可愛いのだ。これはどの噺家でも出来る技ではない。二葉さんの持って生まれたフラが生きている噺だと思った。
帰宅して、配信で「落語模様 つる子ほんとにひとりぼっち・・・」を観ました。「紺屋高尾」を通常の久蔵目線で描いた一席に加え、高尾目線で描いた一席を演じて、これが実に良かった。遊郭の内部を描く落語は意外なほど無く、そこに挑戦して、花魁の喜怒哀楽というものを表現して、心にグッと響く高座であった。
まず、高尾と同じ日に三浦屋に入ってきた環(たまき)という遊女を設定した。いわば同期だ。同じキャリアなのに、高尾は人気を獲得して花魁になるのに対し、環はお茶を挽くことも多く、付く客もあまり金を持っていない男ばかり。出世の違いを思い知らされる。
だが、伊之吉という男を馴染み客にしていて、金は持っていないが、間夫として惚れて、起請文を渡していた。その伊之吉が身請けをしてくれることになり、ようやく報われると喜んだのも糠喜びで、身請けするという日に伊之吉は来なかった。裏切られたわけだ。それを苦にして、環は剃刀で喉を切り、自害してしまう。吉原の悲惨な一面を見せられた思いだ。
それと、新入りの遊女スミを登場させた。13歳。父親が病死し、母親も病で床に伏せ、叔父が口入れ屋に頼んで、三浦屋に売られた身だ。スミが高尾の花魁道中の手伝いをして、「綺麗でした」と率直に感想を述べると、高尾が言う。お前もきっと花魁道中ができるようになるよ。ここには嘘しかない。嘘で固めた世界だ。だけど、きっと本当がある。本当を見抜く目を持ちなさい。その本当が支えになる。きっとこれは高尾の堅い信念だったのだろう。
高尾にも、若さんという間夫がいた。若さんといるときだけ、心が安らいだ。本当の自分でいることができた。外の世界の方が嘘にまみれているのではないか、と錯覚することすらあった。いずれ、この若さんが身請けしてくれて、幸せを掴むことができるのだろうと思っていた。
が!その若さんが三か月来なかった。便りすらよこさない。そろそろ年季が明け、盛大に身請けをやろうと周囲も思っていたのに。すると、瓦版の号外が出た。若さんが財閥の娘と婚約したという…。高尾は何も知らなかった。本当の自分を見せてくれてはいなかったのだ。若さんにとって、本当のことを言わなくていい場所として、高尾と過ごすときだけ、居心地が良かったのだと気づく。
高尾は同期の環の初七日に誓う。ここ吉原は、嘘ばっかりかもしれないが、私たちが賭けていた思いがある。高尾の本名が梅、環の本名が桜。梅と桜を一気に散らしてなるものか。環の形見となった簪が、高尾の誓いの象徴になる。
きっと、この吉原にも本当はある。そう信じた高尾が出会ったのが、紺屋の職人・久蔵。高尾はこの人こそ、「本当」だと信じて、久蔵に簪を託したのだ。
高尾は久蔵と所帯を持った後、「行きたいところがある」と言って、環の墓にお参りに行く。久蔵には「この簪を預けてくれた人のところへ行く」と言って。そして、墓に向かって、こう言う。「本当のこと、あったよ」。
素晴らしい「紺屋高尾 高尾編」だった。