【ラストデイズ 忌野清志郎×太田光】きっと天国で誰にも歌えない歌を歌っているだろう(上)
NHK総合の録画で「ラストデイズ 忌野清志郎×太田光 誰にも歌えない歌」を観ました。(2014年5月2日放送)
僕が中学から高校に上がる頃、それは80年代前半のことだが、RCサクセションが同級生の間で流行っていた。バンドを組んでいた友人はこぞってRCのコピーをして、文化祭で演奏して華やかだった。僕はその頃はオフコースが好きで、買うレコードは「さよなら」や「愛を止めないで」が入ったアルバムだった。今から思うと、「トランジスタラジオ」とか「雨上がりの夜空に」とかのRCも勿論耳になじんでいたが、反体制的なロックより、軟らかなニューミュージックに惹かれていたのは、僕の性分だったのかもしれない。だが、40代になってから、忌野清志郎という存在が気になりはじめ、むしろ小田和正さんより清志郎さんを好んで聴くようになった。不思議なものである。自分の性分も年齢と共に変わっていったのだろう。清志郎さんが歌いたかったものは何だったのか。この番組を観て、改めて色々なことを知ることができた。自分の中で整理して記録にとどめておきたい。(以下、敬称略)
爆笑問題の太田光にとって忘れられない出会いがある。99年冬。忌野清志郎が亡くなる10年前だ。清志郎から届いた一通の手紙には、当時時事問題を扱ってウイットに富んだ漫才で人気を博していた太田が書いたコラムに対するクレームだった。そのコラムの一部である。
今、この日本で政治がどれほどの影響力を持っているというのだろうか。自分が投票しても、あるいはしなくても普段の生活に変わりがないとハッキリと言い切れるならば、選挙に行かない我々の態度は正解なのではないだろうか。
投票に行かなくてもいいと捉えられかねない太田の文章に清志郎は反発を感じ、対談を申し入れ、実現した。清志郎の発言だ。
それまで爆笑問題を好きだったんだけど、あれを読んでガクッときてね。政治に無関心でいいなんて書いていると、君の息子なんかが戦争に行っちゃうわけよ。
清志郎は88年にリリースしたアルバム「Covers」で、洋楽のメロディにのせた痛烈な政治批判の歌詞が賛否両論を巻き起こした。「サマータイムブルース」の歌詞はこうだ。
37個も建っている 原子力発電所がまた増える 知らねえうちに漏れていた あきれたもんだな サマータイムブルース
太田は答えた。
僕は…清志郎さんのほうが影響力を持っていると思うんですよ、政治家よりも。
当時を振り返り、太田が語る。
自分が(漫才では)ストレートな芸のないことをやるくせに、忌野清志郎はそうあってほしくない。「トランジスタラジオ」みたいに、授業をさぼって「もっと自分のやりたい楽しいことをやろうぜ」っていう、忌野清志郎の当時のメッセージも入っていると思う。もともと比喩的な詩人だった人が直接訴えていくほうに行っちゃった感じがする。清志郎さんはどうして、そっちへ行ったのか。どういう変化があったのか。
結局、議論は嚙み合わずに終わった。
「Covers」の原点はどこにあるのか。出身校の都立日野高校に当時の同級生と太田は向かった。そして、清志郎が好きだった場所を案内された。校舎の屋上。授業を抜け出して、煙草を吸って、青空を眺めていた。「トランジスタラジオ」そのものだ。本名・栗原清志は学校になじめず、だが反抗する生徒ではなく、物静かで目立たない少年だったという。そして、感受性は強かった。
清志郎には両親がいなかった。母とは三歳で死別。叔母夫婦の元で育った。「GOTTA!忌野清志郎」から。
中一か中二の時だったと思う。自分が養子だと分かったのは。前からうすうす分かっていたけどね。「あーっ、やっぱりネ」って思った。そんなに深刻にはならなかったよ。親はずっと隠していたけどさ。オレだけ親戚とかにも馴染めなくて…とにかくオレは大人と口がきけなかった。
清志郎は音楽にのめり込む。68年、高校2年生のときにRCサクセションを結成した。繊細で無口な少年を、太田は自分と重ね合わせる。太田は高校3年間、クラスになじめず、孤独を抱えていたという。
つまらなかったというか、どん底というか、1日誰とも話さないみたいなのが何日も続くから、たまに本屋行って「これください」って言うときに声が出なかったりして。「そういえば3日くらい声出してないな」って。こっちから絶とうと思って絶ってたわけではなくて、きっかけがつかめなくて。
本当は友達が欲しくてしょうがなかったから、清志郎さんもそうだけど、似たようなことで悩んでいるわけですよ。自分って何だろうか。世の中とそりが合わないというか、居場所がないというか、皆と同じことができない。
清志郎は無口な少年から時代の寵児になっていく。すると、ロックスターの孤独が生まれる。80年代初頭、ロックの頂点に立ち、武道館で単独ライブをおこない、年間100本のコンサートをやっても、どこかで居心地の悪さを感じていた。心と身体は悲鳴を上げていた。「Rockin on JAPAN」87年のインタビューから。
こんなもんだったのかなと思ったね。やっぱり。売れるということは、こんなつまんねえことなのかと思ったよ。肝臓が悪くなっちゃってさ。医者に行ったら、「もう一生治らない」って言われてね。何にも曲がないのに、ハワイでレコーディングってことが決まってさ。ハワイに行ったはいいけど、何にも考えられない。最低だったね。
清志郎は「何を歌えばいいのか?」、分からなくなっていた。
レコード会社の宣伝担当だった近藤正信は、87年暮れに「ある変化」を感じた。
(ボブ・ディランの)「風に吹かれて」を聴いたんですよ、ライブで。突然、清志郎さんはやったと思うんですけど、物凄くいいなと思って。「いやあ、良かったですよ」って言ったら、大変喜んでくれて。年明けにカセットテープを渡されたんです。「君だけが“風に吹かれて”を褒めてくれたので、オセーボだぜ!」ってメッセージが書かれていて」。
それは洋楽の曲に日本語の歌詞をつけて歌ったテープで、「Covers」の原型のようなものだった。
88年、爆笑問題がデビュー。時事問題を過激なギャグで笑い飛ばす漫才は人気を呼んだ。中国残留婦人、チェルノブイリ原発事故などをネタにした。「世の中とどうコミュニケートしていくか」。太田に一筋の光が見えた。それは、清志郎が「社会へのメッセージをストレートに歌う」ことに開眼するのと期を同じくしていた。
つづく