【ファミリーヒストリー】「小さん師匠と二・二六事件」は“軍隊的組織”の愚を現代の私たちに教えてくれた

NHK総合の録画で「ファミリーヒストリー 柳家花緑 祖父・小さんの二・二六事件~その真実」を観ました。(2013年1月28日放送)

五代目柳家小さん師匠が二・二六事件の反乱軍にいた、というのは有名な話で、僕も知っているくらいだから、孫の花緑師匠もさほど驚かなかったと思うが、その経緯の詳細について知ることができたのは収穫だった。50分番組であるにもかかわらず、DVDのデータ移行の不具合で半分しか観られなかったが、それだけでも十分価値のある内容だった。ただ、二・二六事件以降の花緑師匠も知らない祖父の姿はもっと知りたかったし、悔しい。それと、花緑師匠がそれをどう受け止めたのかも観たかった。まあ、しょうがないことなので、番組前半をまとめて記録し、若干の感想を残したい。(以下、敬称略)

冒頭、取材VTRを観る前の花緑のコメントがいい。

僕は父親が離婚していなかったから、(小さんが)父親代わりであり、祖父であり、師匠であり、本当に濃いので、どんな些細なことでも知らないことが知れたら、僕にとっては喜びです。

五代目小さんは本名、小林盛夫。その父が伝之助である。東京都日の出町に小林家の本家が今もあり、小林洋子さんが出迎えてくれた。ここが伝之助の生家だ。農業、養蚕に従事していた。次男として生まれた伝之助は家を出て、養蚕で繋がりのあった紡績工場に就職。そこで安藤てふと出会い、結婚する。4人の子どもが生まれ、盛夫は大正4年に末っ子として生まれた。

伝之助は金融業に手を出すが、人が良いのが災いして、失敗。夜逃げ同然で、東京浅草に出る。大正7年のことだ。盛夫は話し上手で人気者になった。7歳年上の兄、俊雄が空想をして新しい話を作り、それを盛夫に教えると、すぐに覚えて友達に披露していたのだ。俊雄は病弱で18歳で亡くなった。

昭和3年、盛夫が中学に進学すると、ますます話術に磨きがかかり、人気者になる。日常のエピソードを面白おかしく話すのが得意だったと、同級生だった根岸幸三郎が語る。「先生もファンだからね。きょうあたり、小林を呼ぶか?ってな具合で。そのうち、校長先生にまで知れ渡って、ほかのクラスにも呼ばれる始末」。同時に剣道にも夢中になり、七段の免許を取り、先生になるのが夢だった。

昭和5年、中学を卒業すると、法律事務所に雑用係として就職。そのとき、弁護士が寄席に連れて行ったのがきかっけで、落語の面白さにはまる。著書「咄も剣も自然体」にこうある。「面白かったですよ。なんだか、別世界に来たような気持ちでした」。

18歳で落語家になる決意をし、四代目小さんに入門する。が、修行3年目で徴兵されてしまう。陸軍歩兵第三連隊入隊。剣道で鍛えた体格の良さが買われた。21歳のときだ。それが、入隊後わずか一カ月で大きな運命に出っくわす。陸軍の中に「軍部中心の新しい政府を打ち立て、世の中を変える」という気運が高まっていた。

昭和11年2月26日。「非常呼集!全員起きろ!出動だ!」。上官に言われるがままに、初めての実弾を持たされ、どこで何をするのか何も知らされず、命令のままに動いた。

当時を小さんが降り返っている。

こんな夜中に何しに行くんだと思ってね、二年兵に聞いたんだよ。「二年兵どの、何です?きょうはどうしたんですか?」って訊いたら、「俺もよくわからねえけどな。ともかく、偉い人を襲撃する奴がある。その警備のために行くんだ」と。ああそうですか、と返すしかないよな。

警視庁を占拠した反乱軍。盛夫たち兵士は、何も真相を知らされずにただ、歴史の渦の中にいた。盛夫と同じ部隊にいた増田初一は語る。

ただ市内に暴動が起きたから、これを鎮圧するために出動するということくらいしかわからないんだ。他のことは考えている間がなかった。

午前5時。大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実らと警官8人を殺害。道路を封鎖し、永田町を占拠した。午後になって、盛夫たちのところにも、クーデターの内容が伝わってきた、自分の置かれた状況もわかってきた。だが、陸軍大臣内示として、「決起部隊の行動は天皇の耳に入り、天皇を守るという真心が認められた」と伝えられた。クーデターは成功したかのように思えた。

しかし、2日後に異変に気づく。連隊本部から食糧が届かなくなった。奉勅命令として、天皇が決起部隊の鎮圧を命じたのだ。反乱軍は2万の鎮圧部隊に包囲された。28日午後。「昭和維新」は失敗した、自決しようという空気が流れる。

これを冷静に見つめていた兵士がいた。のちに埼玉県知事にもなる畑和である。「二・二六事件と郷土兵」という手記にこう残している。

部屋の中は興奮と怒声が渦巻き、悲憤のあまり泣き叫ぶ声も起こり、私は面前で彼等がやりとりする姿に何か悲愁を感じずにはいられなかった。

夕方になると絶望的な空気が支配した。そこへ上官がやってきて、盛夫に思いもよらぬ命令をした。「皆を元気づけるために落語をやれ」。無茶である。だが、上官の命令は絶対。「子ほめ」を選んで演じた。しかし…小さんは語る。

ちっとも笑わねえんだよ。そりゃあ笑わないよ。今生きるか死ぬかの最中でね。どうなるか分からねえんだよ。そういうさなかだからね。落語どころの騒ぎじゃないよ。そこで俺が一席やったってね。笑うわけないよ。驚いたね、あの時は。

畑和著「生涯成功―私の履歴書」にこうある。

だれも笑わず、静まり返っていた。あすはどうなるかわからないという瀬戸際では当然だろう。

2月29日。包囲する鎮圧部隊からの「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」という投降勧告に反乱軍は折れた。そして、4日間の「事件」は収束した。

というところで、DVDは途切れてしまった。残念、無念。二・二六事件が、後に人間国宝にまでなる落語家・柳家小さんにどのような影響を与えたのか、それを知る手がかりがきっと取材されていたに違いない。

兎にも角にも、戦時中というのは頭がおかしいんじゃないかというようなことが幾つもあったのだなあと思うし、軍隊という組織における「上官の命令は絶対」という不条理に怯えるばかりだ。これだけ取っても、戦争なんか絶対やっちゃいけないという単純なことではなく、「軍隊的組織」の愚という意味で現代にも通じるメッセージがあるように思う。教科書で数行しか勉強しなかった「二・二六事件」について、ほんの一部かもしれないが深く知れたことに感謝したい。