クリエイティブの魂を常に持ち続ける噺家たち。2か月余り自分の中で蓄積したものがキラキラと輝いた創作落語として世に出た。
オンラインで「渋谷らくご しゃべっちゃいなよ」を観ました。(2020・06・16)
渋谷らくごのキュレーターのサンキュータツオさんと、「しゃべっちゃいなよ」のプロデューサーである林家彦いち師匠による開演前のトークが大変興味深いものであった。このコロナ禍による自粛期間が噺家たちにとって、どういう意味を持つのか。あまり頑張っている姿を他人に見せないのが噺家の美学だと思うので、皆さん口を揃えて「稽古すりゃあいいんですけどね。怠けちゃう」とおっしゃっているけれど、彦いち師匠は「この期間こそ、(自分の落語の)柱を太くしていくチャンスであり、それがファイターというもの」とおっしゃって、至極合点がいった。
タツオさんが今回の「しゃべっちゃいなよ」は新作ネタおろしでなくていいから出ませんか?とお声がけをしたところ、「いや、創ります!」と意欲を示す方たちばかりで、5年間隔月でこの企画を継続してきた手応えを感じたという。こういうプロ意識の高い方たちに、「落語が有料なの?」と、さも無料で観ることが当たり前のようなことが、なぜ言えようか。
彦いち師匠も「古典落語という共有財産を果たして配信していいのか?」という疑問があるという。例えば「空席以外すべて満席」といった昔から寄席で使われてきたフレーズは、落語でご飯を食べている人たちの共有財産であり、そこを侵してはいけないのではないか、と。そして、大変な時間と労力のかかる「新作落語を創作してネタおろしする」という作業に対して、無料はもちろん有り得ないし、配信でやることのリスクやデメリットを考えると、「やりたい!」と意欲を示す噺家さんたちには、最敬礼でしかない。
そして、5人のチャレンジャーたちの今回の新作ネタおろしのクオリティーの高さと言ったら、驚愕という言葉以上の言葉を探すのに苦労するくらいのハイレベルであった。芸人の性として、追い込まれないと創らないという言い訳をしがちだけれど、それはあくまで照れであって、クリエイティブの魂をいつも持ち続けているから、この2か月に自分の中で蓄積したものを吐き出す場がほしい、それが「しゃべっちゃいなよ」だった!ということではないだろうか。
三遊亭粋歌「新しい生活」
テレワークで自宅にいる夫、そういう環境に置かされた妻。世間にいっぱいあったであろう、こうした夫婦の心の行き違いを落語という形で表現している凄さ。粋歌さんの現代社会の本当の実態を鋭く見抜く目にはいつも感心する。確かにテレワークは合理的で「働き方改革」の一つのツールとしてコロナ禍以降も進行していくだろう。「課長さん」の仕事は極端に言えば、部下の仕事の管理であり、「人間関係の調整」「社外との交渉」「書類に印鑑を押す」くらいに集約されるかもしれない。もちろん、部下が優秀であれば、が前提だけれど。そうすれば「課長さん」は週3日程度出社すれば十分だし、むしろインドア派の「課長さん」はこの「新しい生活」の方が自分に適した効率の良いライフスタイルで、「これはこれであり」「これが俺のニューノーマル」と感じ、「整った!」と納得する。
じゃぁ、「課長さん」の妻はどうなのか。「主婦業的には通常営業というか、むしろ自由な時間が奪われた。ステイホームは主婦の繁忙期だった」。けだし名言である。夫が「ニューノーマル」を見つけたと言う一方で、妻は「これまで以上に頑張らなきゃいけない」。「ありがとうね」の感謝の言葉もなく、「頑張れば、いけるよ。限界を自分で作っちゃいけない。がんばっていこうよ!」と言う夫に「お前はブラック企業か!モラハラだ!」とキレる妻。わかる、わかる。
夫婦間の甘噛み、という表現も今っぽい。「あなたは何をしていた?ゲーム、ネットフリックス、アマゾンプライム、ヒルナンデス、ユーチューブ・・・小学生か!」。このまま続けるのは無理!「私は日常を取り戻したい。昼寝の時間や高カロリーおやつの時間を取り戻したい」。今、本当の「新しい生活」とは?を考える素敵な作品だった。
笑福亭羽光「鶏と卵」
SF的な落語も得意とする羽光さんらしい新作だと思った。19世紀後半から20世紀初頭に活動したスイスの言語学者ソシュールが基礎付けた「記号論」をベースに落語にしているのだが、けしてアカデミックで堅苦しいことはなく、面白い作品に仕上がっている。
親子丼を説明するのに、卵という言葉が出なくなったとき、「鶏から産まれた白いもの」と言い換えができる。では、鶏という言葉が出なくなったとき、どう言い換えするか。空を飛ぶ二足歩行もする動物。鶏、卵、親子丼という言葉を忘れたとき、ソシュールは卵を「ササゴ」という記号にしたら解決するとした。スマホが発達し、モノが言葉で認識できない現代病が増え、言葉の言い換えが進むとどうなるか。それは、モノそのものの存在が心の中で消えているのではないかと警鐘を鳴らしているようにも感じた。
ヨシオが妻に結婚記念日にフランス料理の店に行こうと誘うとき、「病めるときも健やかなるときも一緒に過ごすと決めた日」に「普通の食材をさも高級そうに見せる料理を食べさせる技術のある店」に行こうと表現することになる。落語家が職務質問されたときに「扇子を使って喋る」「饅頭怖いを演じる」「笑点に出ている人と同じ」「米朝や談志と同じ」「座布団の上で着物を着て面白いことを言う」職業と答える。シメジとナメタケの汁が、キノコとキノコの汁になってしまう。
言葉が減ることは嬉しさや楽しさを表現すること、さらにその嬉しさや楽しさそのものが減ることにもなり、やがて猿のような人間たちの廃墟と化す。そして、もう一度、海と陸から文明がはじまるところからスタートする未来をも予想する。言葉の消失によって世界の崩壊と再生を暗示する羽光落語に新しい可能性を感じた。
柳家花いち「新しい隠居さん」
古典落語のパターンを一回ぶち壊して、組み立てなおし、マンネリズムを脱却しようという姿勢が見てとれる高座で、八五郎が隠居を訪ねるところから、♪ロック・ユーのメロディで戸を叩くという斬新演出に、一体何がはじまる!?と期待に胸を膨らませた。
馬鹿っぱなしでもしようと訪ねた隠居が享年86で亡くなっていた。八五郎夫婦は悲しみ、思い出に浸る。あの粗茶は最高だったね。世辞の仕方も教わった。夫婦仲を確かめるために、大切にしている一升瓶をわざと割った。息子には寿限無と名付けてもらった。天国の隠居さんに語りかける。
10日後、隠居さんが住んでいた処に新しく引っ越してきて隠居生活をはじめた人がいると、八五郎は早速訪ねるが・・・どうしても較べてしまう。物足りない。その理由は、「決まり事を守らないと遊びにならない」。決まり事というのは、従来の暮らし、つまり日常を取り戻すのはなかなか難しいというメッセージなのだろうか。
立川笑二「八五郎永劫回帰」
人間はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、哲学的示唆をさりげなく、意識的なのか、無意識なのか、こめられた新作に感じたのは、こういうご時世だから僕が過敏になっているせいだろうか。
八五郎と隠居のやりとり、「まぁまぁ、おあがり」「ごちそうさまです」「まんまじゃないよ、まぁまぁだ」「なんだ」「そんなにガッカリすることはないだろう」。このオーソドックスな定型文を軸に輪廻転生する落語が新鮮だ。
八五郎は「人間は生まれ変わる」と隠居に教わり、23歳で吾妻橋から身投げしたら、日本橋の呉服問屋伊勢屋のおかみさんの子どもとして生まれた。伊勢屋の若旦那になった八五郎は28歳で隠居を訪ねる。こざっぱりしたなりに、隠居は気づかないが、「まぁまぁ」のやりとりで、ハッと気づく。その繰り返し。
隠居を毎日訪ねてくれる長屋のお花ちゃんが17歳で相模屋に嫁ぐから、もう遊びにこれないと告げると寂しそうにする隠居。だが、「まぁまぁ」のやりとりで、お花も八五郎だったことにようやく気づく。その前には蚊に生まれ変わって訪ねたが、掌で叩いて潰されて死んでしまったとも。ところで、隠居は一体、何歳なんです!?八五郎で身投げしたのが23歳、伊勢屋に60年、蚊の短い期間を経て、お花として17年。都合100年は経っていますよ。
隠居の答えがいい。「ばれたか。私は死なないんだ。生きているから生きている。死なないから死なない。難しく考えることはないんだよ」。実に哲学的なメッセージではないか。人類史上、稀にみるコロナ禍で、「生きるって何?」と深く考え込む人も少なくない。その答えはここにあるのではないか、とさえ思う。そして、お花が去ったあと、アメリカから黒船でやってきた男が「エックスキューズミー」と隠居を訪ねて…。
瀧川鯉八「江の島慕情」
ロックな生き方とは?を考えた。江の島にある深夜しか営業しないコーヒー屋。「わからないので、任せるよ」と言われ、美味しいコーヒーを出して喜んでもらう。「いつもの」と注文されたマスターは、わからずに適当なコーヒーを淹れ、癖の強いコーヒーを客は「これ、これ。やっぱ、コレだよな」と飲む。客のいない店内に、いきなり「警察だ!」と飛び込んできた。「何名様ですか?」と問うマスター。ロックかもしれない。
三郎は「ロックがやりたいんだ!」と、誰もやりたがらない、ネジを磨く仕事をしている。それが何のネジに使われるかは知らない。下請けの下請けの仕事。三郎は言う。「わしのようになるな。家族はいなくなった。自分を磨くことは立派な仕事だが、家族を幸せにしてあげなさい。もう一度、家族という名の船にのりなさい」。工場は閉鎖された。「ネジは摩擦があったほうがいい」という理論が確立し、ネジを磨くことは間違いだったのだ。そして、江の島のコーヒーは酸っぱい味がした。自分らしく生きることについての覚悟を考えた。
5人の噺家の皆さん、そしてサンキュータツオさんと林家彦いち師匠ほか「しゃべっちゃいなよ」関係者の皆さん、ありがとうございました。