【知恵泉】忠臣蔵を書いた男 並木千柳 人形浄瑠璃の黄金期

NHK―Eテレで「知恵泉 忠臣蔵を書いた男 並木千柳 人形浄瑠璃の黄金期」を観ました。

三大名作と言われる「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」を書いた作者は誰か?と問われたら即答できる人はほとんどいない。その答えがすべて並木千柳であり、しかも1946年から3年間でこれらを書いたというのだから驚異的である。

1695年に生まれた千柳は近松門左衛門の42歳年下、若い頃に出家して禅宗の僧侶になったが、30代で僧籍を離れて還俗する。そして、並木宗輔という名前で豊竹座の作家としてデビューする。竹本座の近松の没後2年のときである。当時は合作がほとんどだが、宗輔は立作者として筆を執る。1727年から35年の間に「清和源氏十五段」「摂津国長柄人柱」「尊氏将軍二代鑑」「南都十三鐘」「後三年奥州軍記」「藤原秀郷俵系図」「蒲冠者藤戸合戦」「本朝檀特山」「楠正成軍法実録」「源家七代集」「和泉国浮名溜池」「赤沢山伊東伝記」「待賢門夜軍」「忠臣金短冊」「莠伶人吾妻雛形」「那須与市西海硯」「刈萱桑門筑紫轢」。人形も近松の時代の一人遣いから三人遣いに代わり、繊細な動きの表現が豊かになり、ストーリーも複雑になっていく。

そして、宗輔は合作ではなく単独で筆を執るようになり、1735年から40年に間に「南蛮鉄後藤目貫」「和田合戦女舞鶴」「安倍宗任松浦簦」「釜淵双級巴」「丹生山田青海剣」「奥州秀衡有鬙婿」「狭夜衣鴛鴦剣翅」「鶊山姫捨松」を書いている。宗輔は豊竹座で10年以上にわたり立作者を勤め、「やりきった」という思いに至り、新天地として歌舞伎に移る。「大井川三組盃」「大門口鎧襲」などを書いたが、思うようにはいかなかった。

そんなときに、竹本座の竹田出雲(初代)から「もう一度、浄瑠璃を書かないか」と声が掛かり、また三人遣いを取り入れたカリスマ人形遣いの吉田文三郎がいたことから、竹本座の立作者になる決心をし、名前を宗輔から千柳に改めた。そして、1945年に世に出したのが「夏祭浪花鑑」だ。世話物初の長編で、特に七段目の通称「泥場」の壮絶な舅殺しは大きな反響を呼び、大ヒットとなった。当時「操り段々流行して歌舞伎は無が如し」と言われたほど、人形浄瑠璃は黄金時代を迎える。

竹田出雲は自分が老い先短いことを悟り、千柳に次の狂言は自分を立作者にしてほしいと頼む。千柳は義理を感じ、承知する。実際には三好松洛と竹田小出雲と千柳の合作で、46年「菅原伝授手習鑑」を書きあげ、上演。これが大ヒットとなり、半年のロングランになる。翌年、出雲は逝去した。出雲の息子の小出雲が二代目竹田出雲を襲名、千柳よりも後輩の二代目が座元兼立役者となり、「自分の名前を前に出せない」葛藤を千柳は味わうことになる。

47年「義経千本桜」上演。千柳が書いた「すしや」の段でいがみの権太が父の恩人を守るために妻子を差し出し、自らの命も落とす場面は観客の共感を呼び、大ヒットとなる。そして、48年「仮名手本忠臣蔵」上演。50年前の事件を題材にした作品はこれまで以上の大ヒットとなった。人形浄瑠璃研究の第一人者で早稲田大学名誉教授だった内山美樹子氏の説によれば、全11段のうち二段目と十段目を三好松洛、八段目は松洛か出雲が担当したが、それ以外はすべて千柳が書いたものだという。

四段目の判官切腹で大星由良之助が駆け付けるところ、六段目で討ち入りに参加できない勘平が切腹するところ。それらには千柳が義理と本能の狭間で葛藤していたことがよく顕われている。3年後に千柳は竹本座から古巣の豊竹座に復帰する。そして、「一谷嫩軍記」の執筆途中で倒れ、亡き人となった。享年五十六。近松門左衛門のように、もっとその名が知られてもよいほどの功績を残した並木千柳の生涯に思いを馳せた。