津の守講談会 田辺一邑「焼津と八雲」田辺一乃「食人鬼」

津の守講談会七月初日に行きました。今月は小泉八雲特集の三日間だ。
「本能寺」神田伊織/「焼津と八雲」田辺一邑/中入り/「加藤孫六 出世馬喰」宝井梅福/「食人鬼」田辺一乃
一邑先生の「焼津と八雲」。浜松出身の一邑先生らしい創作ネタおろし。晩年の八雲は毎年夏になると、保養に焼津に一カ月ほど滞在していた。古事記の日本武尊所縁の地ということもあるが、何より焼津の海を気に入り、また滞在場所として二階を提供してくれた魚屋の山口乙吉を気に入った。
乙吉が船を出すと、マグロの大群を見つけ、同乗した地元民が力を合わせて捕獲する様子を目を細めて観ている八雲の姿が目に浮かぶ。マグロの「へそ」と呼んでいる部分、心臓にあたるそうだが、それを生で口に放り込む老人に驚き、勧められるが、八雲にはそんな勇気はなく、沖に上がって火を通した「へそ」を八雲が食すと「大変美味だ」と喜んだというエピソードも好奇心旺盛な八雲らしい。
古川の地蔵様に奉納されている板子にまつわる話を八雲が後に「漂流」という短編にしているのも興味深い。酒屋だった天野甚助という十九歳の青年が福寿丸という船に乗って、他の7人と漁をしていた。ところが、台風によって紀州沖で船が転覆。他の同船者が助からない中、甚助は板子一枚にしがみついて、御詠歌を唱え、漂流しているところを通りかかった帆船に見つけられ、救助された。以来、甚助の命綱となった板子が古川の地蔵尊に供えられたという…。
山口乙吉の家は現在も愛知県の明治村に移管されており、焼津には小泉八雲記念館が建っている。あまりスポットの当たらない焼津と八雲の関係を興味深く聴かせる一邑先生の手腕に感服した。
一乃先生の「食人鬼」。臨済宗の禅僧・夢窓疎石の若き日の修行の旅の中の物語として創作されている。道に迷い、一晩の宿りを請うた夢窓だが、庵の老僧には断られ、その代わりに「この先にある村に行きなさい」と村長の家を紹介される。その家には一つの部屋に数十人の人々が集まっていて、夢窓は誰もいない別の部屋に案内される。実は村長である父親が今さっき息を引き取り、長男である自分が跡を継ぐのだが、今晩は村の掟によって我々親類一同は隣村で過ごさなければいけないと若い男が説明に来た。
夢窓は「私は仏に仕える身。何が起きても、経を読み、座禅を組めば過ごせる」と言って、その家に独り残って一晩を過ごすことにする。やがて夜半過ぎ、人の気配がして、ミシミシと歩く音、サヤサヤという衣擦れの音がした後、猫が鼠を齧るように亡き骸を食らいつくす様子が伝わってきた。夢窓はひたすらに読経し、座禅を組んで時間の過ぎるのを待った。
翌朝。村長の息子がやって来て、夢窓の無事を確認し、安心する。夢窓が昨晩の忌まわしい出来事を話すが、男は驚かない。彼はそういう忌まわしい出来事が起きることを予測していたかのようだった。そして、夢窓は礼を言って村を去る。
村を訪ねる前に寄った庵の老僧は何者だったのか。気になって、もう一度、夢窓は訪ねる。すると、老僧は夢窓を招き入れ、ひれ伏した。「亡き骸を食らったのは私です。醜い姿を見られた。恥ずかしい」。そして、懺悔を始める。
昔はこの辺りのたった一人の僧侶だった。経を読むのは衣食のためで、仏の道に反する行いを犯してしまった。特に肉を食らうことがやめられなかった。地面に葬られても死ぬことができなかった。私は罰として食人鬼に転生してしまった。以来、亡き骸を食らうようになった。
そして、夢窓に請い願う。「苦しみから逃れたいのです。お慈悲です。私に施餓鬼を施してください。救ってください」。夢窓は両手を合わせ、施餓鬼の供養をした。すると、老僧は消え、庵もなくなったという…。小泉八雲の世界観を大切にした創作だった。

