立川笑二真打ちトライアル「もう半分」「妲妃のお百」「抜け雀」「景清」

「立川笑二真打ちトライアル~笑二十八番」三日目に行きました。「もう半分」「反魂香」「妲妃のお百」の三席。立川談笑師匠は「猫と金魚」だった。

「もう半分」は居酒屋主人の独白というスタイルが笑二さん独自の演出で良い。その上、「もう半分」の爺さんが忘れていった百両は居酒屋女房が主人の反対を押し切ってネコババし、爺さんは身投げして死んでしまうが、主人は吉原に売られた爺さんの娘を身請けして罪滅ぼしをしようとする善人に描いているのが素晴らしい。

爺さんの怨念で女房は爺さんそっくりの赤ん坊を出産、そのまま驚愕して女房は死に、赤ん坊はハイハイをして行燈の油を美味そうに舐め、首を絞めても死なない。居酒屋主人は爺さんの娘を身請けしようと半蔵松葉に出向くが、百両で売られたが身請けしたいなら三百両出せと言われてしまう。頑張って身代を大きくした居酒屋だったが、奉公人全員に暇を出し、店を畳んで家財道具一式を売り払い、ようやく三百両を拵えたのに…。その三百両をふらりと入った店に置き忘れてしまうという…噺がループする構造も笑二さんらしくて、傑作だ。

「妲妃のお百」。美濃屋の小さん、実は妲妃のお百が門付けに来た峰吉・およし母娘に親切にしてあげたのは、人情からではなく、最初からおよしの美貌に目を付けて吉原に叩き売るつもりだったという、その毒婦ぶりを鮮やかに描いていた。

以前深川で売れっ子芸者だった峰吉は春日部の穀物問屋大黒屋卯兵衛に身請けされたが、卯兵衛の放蕩がやまず、挙句に離縁されてしまって、峰吉は娘のおよしを連れて江戸に戻り、木賃宿を転々としながら門付けで食べている。その身の上話を聞いた小さん実はお百は悪党仲間の達磨の喜六と結託し、一芝居を打つ。峰吉が目を患っているのをいいことに、麹町の眼科医に養生に出し、およし独りになったところで、喜六が大黒屋元番頭仁吉に扮して、「峰吉に暖簾分けの金を騙し取られた。百両返してほしい」と訪ねさせる。

小さんは「明日にでも百両用意するから」と、無理やり金の代わりに娘を連れ出そうとする“仁吉”に接するも、百両は工面できずに何日も仁吉は小さんを訪ねる。とうとう仁吉は痺れを切らし、金が出せないなら…と乱暴な振る舞いをすると、それを見かねたおよしが「私を連れていってください」と言う。この言葉を小さんは待っていたのだ。

およしは三浦屋に三百両で売れた。お百と喜六で百五十両ずつ山分けだ。小さんこと妲妃のお百は大坂雑魚場の生まれで、十七歳で桑名屋徳兵衛の嫁に入るが、江戸に出たときに深川で徳兵衛を殺した毒婦だ。

やがて麹町から峰吉が帰ってきて、「目がだいぶ良くなった。娘に会いたい」と言うので、およしは蔵前の札差の山藤さんの娘に三味線の稽古をつけるために預けてあると嘘をつく。それでも会いたいと言う峰吉を説き伏せ、二階に放りこんで、ろくに飯も食わせない。毎日「およしは帰ってきましたか」と五月蠅いので、小さんは始末してしまおうと考える。

達磨の喜六が「博奕で掏った、十両貸してほしい」と来たので、三十両やるから「二階の婆さんを消しておくれ」。およしは山藤のお嬢様の都合で綾瀬に移り住んでいるということにして、喜六が綾瀬まで案内してあげると言って、峰吉を背負い、出掛ける。向島まで来たところで、「およしが山藤さんのところにいるなんて、皆嘘だ。小さんこと妲妃のお百に三十両で頼まれた。お前の娘は吉原の三浦屋に三百両で叩き売ったんだよ」と言いながら、手拭いで峰吉の首を絞め、匕首で腹を刺し、最後は喉笛を掻っ切って、隅田川に沈めた。この陰惨な描写が笑二さんは優れている。

始末が終わった後、喜六が駕籠に乗って深川に帰ろうとするも、なぜか吉原や蔵前に行ってしまい、駕籠屋に「勘弁してください」と言われる。そして喜六に後ろから峰吉が覆いかぶさるようにして「ヤダ、ヤダ」と言っている。幽霊に憑りつかれた様子にゾクゾクする。その後、喜六の姿を見た者を誰もいないという…。

妲妃のお百はその後、秋田佐竹藩の殿様の妾になったが、御家乗っ取りの悪事が露見し、討ち首になったという。しっかりとした話術で笑二さんが興味深く聴かせてくれた。

「立川笑二真打ちトライアル~笑二十八番」四日目に行きました。「持参金」「抜け雀」「景清」の三席。立川談笑師匠は「看板のピン」だった。

「抜け雀」。宿屋に泊まった一文無しが仙台伊達家のお抱え御用絵師の息子だったが、型にはまった英才教育に嫌気がさして家出をしたという設定が見事である。男は息苦しい父親から抜け出したいという気持ちの表れとして、衝立に自由に飛び回る雀を描き、わざと止まり木を描かなかった。衝立から抜け出す雀の評判で閑古鳥が鳴いていた宿屋は大盛況となり、噂を聞きつけた伊達の殿様が買い求めたいと御用絵師、つまり男の父親を宿屋に派遣して目利きさせる。

父親は一目でこの絵は息子が描いたと見抜くと同時に、絵に「ぬかり」があると指摘する。それは命を宿した雀だから、止まり木がないとやがて疲れて死ぬという見立てだ。自分の好きなように自由に空を飛び回りたいのだろうが、世間を生きていくのはそんな生易しいものではない、わしがお抱えになるまでどれだけ苦労したことか。止まり木だけでなく、外敵から守るために籠を描き、雀を閉じ込めてしまった。これでは自由に飛び回ることはできない。

暫くして息子が再び宿屋を訪ね、父親が手を加えた絵を見て、おかしいと言う。命あるものはやがて死ぬから美しい、その僅かな命を懸命に生きるから素晴らしい、籠に閉じ込めるなど正気の沙汰とは思えない。世間は厳しいものだ、だから面白いのだ、と。そして、父親の描いた籠に穴を空ける。

父親と息子の絵の解釈をめぐる激しい親子喧嘩で、結果的に衝立の絵が台無しになってしまうというエンディング。笑二さんが「抜け雀」に新境地を拓いた。

「景清」。上野の眼科医には手遅れだと言われ、日参した赤坂日朝様にも見放された木彫り師の定次郎に対し、「名人の腕が勿体ない。悔しくて、やりきれない。神仏にもう一度すがってみなさい」と説く石田の旦那。そのときに定次郎が言う本音が胸を打つ。

盲目になったとき、嬉しかった。強情で言うんじゃない。子どもの頃から木彫りをして親父に褒められ、「この先、いいものが彫れる。精進しなよ」と言って死んでいった親父の言葉を支えに寝る間も惜しんで仕事に精を出した。ところが、あるとき、「なんだい、あの定次郎は。近頃自惚れている。俺が頼んだ仕事に手を抜きやがった」と言う人の声が耳に入った。拙い仕事などしていないのに…仕事が億劫になった。すると、評判を落とし、益々木彫りがしたくなくなった。だから、盲目になったときに「これで木彫りをしなくて済む」と喜んだ。

だが、時間が経つと、久しぶりに木彫りがしたくなった。目が見えなくても、体が覚えていると思っていたが、手が動かない。見えなきゃどうにもならないことがわかった。他人の言うことなんか気にするんじゃなかったと後悔した。見えなくなって初めて、木彫りがやりたいと思うようになった。

石田の旦那の勧めで上野の清水様に百日通った。だが、目が明かない。定次郎が旦那に言う心の叫びが辛い。「おふくろが親父の形見の黒紋付を着せてくれた。目が明いたらそれが判るんだねと言って。赤飯を炊いておふくろが待っている。お賽銭もおふくろが咳き込みながら夜なべ仕事をして稼いだ銭だ。帰れないんだよ!」。

石田の旦那の定次郎への思いも熱い。賽銭は私が立て替える。母子の暮らしの面倒も私が見る。だから、一から信心しておくれ。私はこれから先の定次郎が見たいんだ。私のためにと思って信心しておくれ。そして、見えるようになったら、私のために観音様を彫っておくれ。

果たして、定次郎の目が明き、いの一番に旦那のために観音様を彫った。そして、これを契機に定次郎は木彫り職人として見事に「開眼」したのだ。素晴らしい高座だった。