田辺一鶴十七回忌追善興行

田辺一鶴十七回忌追善興行の昼の部と夜の部に行きました。

昼の部 「三方ヶ原軍記」田辺凌々~田辺一記~田辺いちか/「生か死か」田辺鶴遊/「瞼の母」田ノ中星之助/中入り/「東京オリンピック」田辺銀冶/「曲馬団の女」田辺一凛/「名月若松城」宝井琴梅

夜の部 「三方ヶ原軍記」田辺凌々~田辺凌天~田辺いちか/「高野長英 水沢村涙の別れ」田辺凌鶴/「瓢箪屋政談」桃川鶴女/中入り/「東京オリンピック」田辺一乃/「英国密航」田辺一邑/「田辺一鶴物語」田辺鶴英

田辺一鶴先生で個人的に思い出すのは、僕がNHKに入局して2年目だったと思う、当時名古屋放送局勤務だったが、「ちびっ子講談師」を取材して夕方のローカルニュースの企画として放映した。一鶴先生が小学生を対象に講談を教え、優秀な人材を育てようとする試みで、確か小学4年生の男の子の達者な講談と稽古の様子や学校、家族の反応を撮影して10分くらいにまとめた。今から思うと、鶴遊先生も小学生時代に見出され、チビ鶴を名乗って活躍したそうだから、一鶴先生はこうやってマスコミを利用して講談を広めることに熱心だったことがわかる。

「ヒゲの一鶴」として有名だった一鶴先生は、1964年の東京オリンピックの94か国の入場行進を修羅場読みして世間にアピールした。講談を色々な人たちに知ってもらうことに長けていたのだと思う。森永ミルクキャラメルのCMやNHKのスタジオ101出演、第一回放送演芸大賞受賞…「講釈場の講釈」から飛び出した活躍は目を見張るものがある。

今日の講談界は女性が半分以上を占めるというのも、一鶴先生の功績だろう。神田翠月先生は1968年に一鶴門下に小鶴として入門しているが、当時演歌歌手だった彼女を口説いて、口説いて、弟子にした。そのとき、一鶴先生はまだ二ツ目だったのに弟子を取っていたという…。今から思えばこれが一鶴先生の破天荒なところで、一鶴先生が真打に昇進した2年半後に翠月先生が真打に昇進しているというのだから驚きだ。宝井琴桜先生も一鶴門下に千鶴子という前座名で入り、その後に五代目馬琴門下に移籍して、講談協会初の女性真打になっている。

きょうの追善興行で昼も夜も前座と二ツ目による「三方ヶ原軍記」の俥読みがあったのが印象的だ。一鶴先生は生まれたときから重度の吃音に悩まされた。終戦後、戦災孤児になって、勤務先を転々とするが、それは吃音ゆえだった。口がうまく利けない。ならば、逆に口を利くのを目的とする講談で矯正しよう。そう考えるのが、一鶴先生のすごいところだ。十二代目南鶴先生の講談教室に通う。クリスチャンだった南鶴先生は優しく指導してくれた。

そして、「プロの講談師になる!」と決意する。師匠の南鶴先生は「あなたでは真打になれない。生涯前座かもしれないが良いのか」と訊くが、一鶴先生は「それでも構わない。吃音でも頑張って、講談を世界に広める!」と夢を持ったというのがすごい。講談組合では苛めに遭った。でも、「今に見ていろ」と不屈の精神で頑張った。そのときに嫌というほど稽古したのが、「三方ヶ原軍記」である。軍談の修羅場読みができれば、吃音は克服できる。そう考えた一鶴先生は電車の通る陸橋に下で、大声で修羅場の稽古をした。

だから、東京オリンピック入場行進94か国の修羅場読みはその努力の果てなのだ。それで、世間で一鶴の名前が売れたというのは講談の神様がほほ笑んだとしか思えない。

鶴英先生がきょうの「田辺一鶴物語」の最後で、一鶴先生が亡くなる直前に鶴英先生に言った言葉が印象的だ。「新作は古くなるが、古典は古くならない。古典を聴かせる技術を磨けよ。軍談を勉強しろよ」。修羅場語りが基本。そして、弟子を育て、講談の火を消すな。師匠の言っていたことが、ようやくわかるような気がすると鶴英先生は言った。新作講談で売れ、個性的な風貌と言動が目立った一鶴先生だが、根っこのところでは、実に真っ当な講談への愛情が根底に流れていたのだなあと感じた。